赤マントは復活するか

何か、そろそろ復活しそうな世情になってきたなぁという感想。

「20世紀の歴史 Vol.89 日中戦争2」、1975年11月5日発行

「赤マント」の怪

 1939年(昭和14)春、東京の子供たちのあいだでは、「赤マントの傴僂男」の話がもちきりであった。
 「−赤いマントを着た傴僂の男が夜になると出て来るんですって。そして夜、歩いている子供を見るとつかまえて血をすするんですって・・・。
 −小学校三年と四年と五年の女子の血をすするとライ病(ハンセン氏病)が治るんだって。あら本当よ。学校の先生も本当だっていってたわよ。恐いわ」といった子供たちの会話があちこちで聞かれるようになった。この話題は、女学生や中学生にもひろがり、さらには東京の全市民が、まるで呪文でもかけられたように「赤マント」流言にまどわされた。
 「赤マント」流言の内容は「赤マント」が生胆を狙っているとか、その赤マントが相手にするのは処女に限られているとか、その生血によって、“難病”をなおそうとしているとか、さまざまであった。
 女学生や中学生のなかには、この「赤マント」の「赤」から共産党を連想し、何か共産党と関係のある人物のしわざであると思いこむものが多かったという。大人のなかにもこの話を信じたものが少なからずいたようで、ある教師は教壇からおおまじめでこの流言をつたえ、夜遊びをするなといさめたそうである。天然痘が流行したときの、赤飯をたいてそれに赤い御札をたてるとなおるという迷信から、そうした患者の仕業であろうとかんがえたものもいたという。
 とにかく、話は急速に東京全市にひろがり、ついに当局が新聞に取消記事を書かせるまでになった。さらに、ラジオニュースの時間には「警視庁公示事項」として、「最近帝都の小学校や女学校で赤マントの傴僂男の会談が流布しているさうだが、そんな事は絶対にないから、家庭でも学校でもそんな噂話をお互ひにさせぬやうにしてもらいたい。もしかかかる説を流布して歩く者があったら厳重に取締る」と流すほどであった。
 なぜ、子供の恐怖心のうえに発生したと思われるこの怪人「赤マント」の流言が、燎原の火のごとく全市にひろがったのであろうか。あまりにレベルの低い流言ではないか。
 大宅壮一は、この事件を「現代ジャーナリズムに対する一つの皮肉な“抗議”」としてとらえている(大宅壮一『「赤マント」社会学』『中央公論』)。
 つまり、大宅は、1939年の時点においては、新聞の機能が変質したというのである。それ以前の新聞は、大衆の関心と密着して、事件を追及し、その経緯を詳細につたえ、大げさにいえば「事件を創造」するほどになっていた。しかるに、最近の新聞は「時代の圧力によって」発表をおさえられるようになってきた。したがって、大衆は「新聞には何も書いてない」、「どうせ書物になって市場に出ている以上、ほんとうのことは書いてないだろう」といった不信感をつのらせている。わずか一か月ばかりであるが、全帝都を風靡した「赤マント事件」も、こうしたジャーナリズムの状態にたいする「抗議」の幼稚な原始的な状態なのである。こう大宅は、その分析をむすんでいる。
 はたして、大宅が分析するほどに大衆にジャーナリズムにたいする不信があったかどうかはわからない。だが、そうした分析をせざるをえないほどジャーナリズムへの統制が強まっていたということは確かである。