今村回顧録に見る日本軍の慰安所運営関与の内容

今村均回顧録」(芙蓉書房出版、昭和45年5月15日第1刷、昭和63年3月30日改題第9刷発行、P326-328)

 慰安所
 南寧方面に新設された、第二十二軍司令官に補職された久納中将は、二月中旬、その官舎としている家に、私と桜田近衛旅団長を主賓とし、軍の幕僚各部長ら総数二十名ぐらいを招き、夕会食をやった。軍司令官に就任の披露を兼ねたもの。
 話は大部分、安藤軍のやった大攻勢に関するものであり、その後は雑談に移った。同席していた軍の管理部長が、次のようなことを云いだした。
「話は下がりますが、きょう自動車で十五名ほどの抱え主につれられて、百五十名の慰安婦が到着し、軍管理部で、家屋の都合はつけました。全部を南寧に留めておいてよいか、近衛部隊は南寧から八キロも離れた部落におりますので、そちらには何名ほど移らせたらよいか、ご決定を願い、その方の設備は桜田旅団でやっていただきたいと存じております」
 すると誰かが、
「双方の兵員数に応じ、按分できめたらよいでしょう」
 そういうや否や桜田少将が、
「ご配慮は有難いですが、近衛の兵は、いくらかほかとは違っており、そのほうのご心配は無用にしていただきます」
 と、云う。同少将は性的方面にも謹直の人。
 誰かが、
「近衛の兵は各地方で選ばれている人たちですが、やはり本能上のことは、考えたほうがよいのではありませんか。でないと・・・」
 こうもいったが、やはり、
「私の方の宿営地には、無用にしていただきます」
 はっきりこうことわったので、他の話題に移った。
 慰安所というのは、将兵の性的慰安のためのところであり、わが国内では、戦地のこの種施設をひんしゅくする人が多い。これはわが国軍だけのことではなく、列国軍とともに「特種看護婦隊」の名でやっているとのこと。私もこの名のほうがよいと思う。ずっと以前、誰かから聞いたのだが、往昔わが東北地方の前九年後三年の戦のときも、朝廷は、京女からなる慰安隊を、源氏の軍に送っているとのことである。
 右の日から十日ほどたち、憲兵隊が各部隊の南寧慰安所利用状況を一表にして、参考のためと云い、各隊に配布してきた。それによると、予想に反し、これを利用する人は、近衛部隊の者が一番多く、しかも往復十五キロ以上の道を歩んで来てのことと云う。
 その後桜田少将に会ったとき、遠慮のない間柄のこととて、憲兵隊の調査表のことを話題にして見た。
「五十に手がとどきますと、こんなにも、二十代青年のことがわからなくなるものですかね。私も、あの表を見て驚いてしまい、会食の席での言葉を率直に取り消し、やっぱり部隊の宿営地に分派してもらうことにするつもりでおります」
「(略)君が率直に前言を取り消し、あの設備を宿営地内に設けてやれば、兵は遠路を通う必要がなくなり、きっと喜ぶだろうと思う」
 このように語った。
 しかるに私の師団長宿舎の井田軍曹と従兵三名が、その施設を利用しているように見えない。
「井田軍曹!君たちは、どうしてあそこに行かないのだ。私に遠慮してのことか」
「いいえ、司令部の兵隊たちは皆が憤慨し、『そんなことなら行くまい』と話しあっております」
「”そんなことなら”とは、どういうことか。悪いところは副官部に申しでて、軍管理部にかけあい、なおさすべきだ。遠慮なしにいってごらん」
「一人、一日一枚だけの切符より売らなければよいのですが、一人に何枚も売ります。その方が抱え主にも相手のものにも利益が多いのだそうです。一枚で三十分ですが、五枚買えば二時間半相手を独り占めにします。一枚だけより買えない者は、何時間も待たされ、しかもちっとももてないそうです」
「誰が一度に、そんなに何枚も買うのか」
「将校がた、次が下士官、ですから慰安所は、兵のいけるところではなくなっています」
 かように云う。私はこの事を師団副官に研究させ、軍の管理部と相談の上、一人一日一枚以上買えないことにし、その日の切符はその日だけの通用に制限するようにしたとの事を、聞くには聞いたが、間もなく南寧を去ったので、実効があったかどうかは、知らずに終わった。

今村の記載内容から、慰安婦の配置・配分、慰安所の運営方法に至るまで、日本軍が積極的に関与していることが明白で、「戦場に勝手についてきた追軍売春婦」というのが、歴史修正主義者の悪質な捏造であることがわかりますね。