「独島(竹島)」に関する1877年太政官指令等に対する個人的見解

独島(竹島)領有権問題に関して、近代化以前の江戸時代などの史料にほとんど価値はない、というのが私の個人的見解です。
近代的な測量技術をもって位置を明確にした上で国家として領有の意思を明示した史料としては1905年の島根県の告示が現存する最古のものと考えていますので、それ以降の史料でしか領有権の法的正当性を判断できないと思っています。もちろんそれらの史料を判断した結果、1905年の島根県告示が正当とみなせるかどうかは別問題です。
1900年の大韓帝国勅令41号は興味深い史料ではありますが、「石島」=独島(竹島)である決定打に欠け勅令周辺の史料研究が待たれるところで、現時点で私はそれほど重要視していません*1。とは言え、日本の外務省が指摘するほど不確かな史料というわけでもなく、「石島」=独島(竹島)という説は、それなりに蓋然性が高く、軽視するべきではないとは思ってます*2

1877年太政官指令は鬱陵島、独島(竹島)に対する当時の日本の領有を否定したものではありますが、積極的に朝鮮領であったことを示すものとも言えませんし、私としてはさほど重要視していません。
せいぜい、1905年の日本による独島(竹島)領有宣言以前は日本領ではなかったこと、を示す傍証のひとつという認識です。
先に書いた「独島(竹島)に対する1877年時点における日本政府の認識」という記事はそれを示しただけなのですが、四六時中、韓国のことしか考えていないバカは「じゃあ、韓国領だという証拠を見せろ」とかわけの分からぬことをほざいています。1877年太政官指令に関連する史料群は、日本領ではないと明記した「竹島外一島」の「外一島」が「松島」であり、「松島」が現在の独島(竹島)であることが、付属する地図や「松島」の説明からほぼ100%確定できる稀有の史料ですので、特に取り上げたに過ぎません。もうひとつ理由があるとすれば、島根県の公式サイトが1877年太政官指令にある「松島」を鬱陵島のことだ*3と滅茶苦茶なデマをばら撒き、外務省のサイトが1877年太政官指令の存在を無視して「我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立しました」*4などのデマを述べているからですね。


現実的に考えて、近代化以前の独島(竹島)が日韓双方の漁民に利用されていたのは否定できませんし、近代化以前の国家が海上国境を明確化する意思に欠けているのも不思議ではありません。江戸幕府にしても鳥取藩にしても、漁民から徴税できればそれで良く、どこから魚を獲ってくるかなどに興味はないというのが本音でしょう。
問題が起きるのは、日韓の漁民間で縄張り争いが生じ、漁民が領主に助けを求めた場合ですが、領主にとってみれば面倒ごとでしかないのが当然です。17世紀の竹島一件は、鬱陵島を巡って日韓の漁民が争った紛争で、やむを得ず幕府が朝鮮政府との交渉に出ていますが、漁民の権利の保護とかそういった視点よりも面子争いという側面が強いと言えます。
というのも、鬱陵島を朝鮮領と認め渡航を禁止した1699年以降も独島(竹島)に関して幕府は積極的に領有権の主張はしておらず、漁民が勝手に漁に行く分には知ったことではないという態度を取っているからです。独島(竹島)が人の住めない岩ばかりの無人島であることを考えれば、鬱陵島のような日韓の漁民が対峙するような事態そのものが起こりにくいためでしょう。
近代化が始まってようやく領土意識が芽生えましたが、海上交通・測量の技術が未成熟な状況では、正確な地図を書くことも容易ではありませんでした。そのため、島の名称自体が混乱しており、同じ名称であっても同じ島を指しているとは限らず、現在の島との対応関係に諸説ある*5わけです*6

1904年時点では日本政府は独島(竹島)が韓国領土である可能性を認識

こちらは島根県のサイトにある説明です。

中井養三郎が明治37年(1904)に上京して「リャンコ島領土編入並貸下願」を内務、外務、農商務省に提出した時、内務省は「内務当局ハ此時局ニ際シ(日露開戦中)韓国領地ノ疑アル莫荒タル一箇不毛ノ岩礁ヲ収メテ、環視ノ諸外国ニ我国ガ韓国併呑ノ野心アルコトノ疑ヲ大ナラシムルハ、利益ノ極メテ小ナルニ反シテ事体決シテ容易ナラズトテ、如何ニ陳弁スルモ願出ハ将ニ却下セラレントシタリ」、つまり、現在日露戦争中だからこの請願は受け入れるべきでない、という当初意見でした。

http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g16.html

「リャンコ島領土編入並貸下願」が提出されたのは1904年9月です。この時日本政府は独島(竹島)に対して「韓国領地ノ疑アル莫荒タル一箇不毛ノ岩礁」と認識していました。1877年太政官指令と合わせて考えれば、1905年の領有化宣言以前に日本が独島(竹島)を日本領とは認識していなかったことは明らかと言っていいでしょう。

日本政府は、旅順陥落により欧米での外債売上が軌道に乗った1905年2月、「諸外国ニ我国ガ韓国併呑ノ野心アルコトノ疑」を気にする必要がなくなった時点で領有化を宣言しました。「韓国領地ノ疑アル」にも関わらず、韓国政府とは交渉することもなく一方的に宣言をし、韓国政府に対しては1906年3月になってから島根県視察団・神西由太郎から鬱陵島の郡守・沈興澤を通じて、独島(竹島)の領有を通告しています。
この時、韓国側は独島は本郡に所属する島と主張していますので、1905年の島根県告示には異議が出されたことになります。

  一方、沈興澤は島根県視察団が船で島を去ると、3月29日(陰暦3月5日)鬱島郡が所属する江原道(カンウォンド)の道庁に、いわゆる「沈興澤報告書」と呼ばれるものを提出しました。それには「本郡所属の独島(ドクト)は外洋にあり、100余里も離れているが、3月28日、日本の官人達がやって来て、独島がこの度日本領地に編入されたので視察に来たと言った。官人の代表は日本島根県隠岐島司東文輔、事務官神西由太郎、税務監督局長吉田平吾、分署長警部影山岩八郎等であった。彼等は鬱陵島の戸数、人口と土地の生産物の多少等について質問した。こうした状況に対して検討されることを願う。」というものでした。

http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g19.html

郡守・沈興澤は、韓国政府に対しどう対処すべきか判断を求めましたが、4ヶ月前の1905年11月に第二次日韓協約を結ばされ既に外交権を日本に奪われた韓国には対処のしようがありませんでした。

これに対して議政府参政大臣朴斉純は「独島が日本領になったということは、全く根拠のないことであるが、さらに独島の状況と日本人の行動について報告すること。」という指示を出しています。

http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g19.html

この後、独島(竹島)を領土問題として日韓で交渉するような余裕などなく、日本から間断なく主権を削り取られていった韓国は1910年に完全に併合され、日本がアジア太平洋戦争で敗北し自滅するまで、韓国側が独島(竹島)を自国領と主張することさえできなかったわけです。

日本が「竹島」領有を宣言した1905年の島根県告示の当初の時点から、「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡ナク」*7という事実認識に疑念があり、領有宣言の正当性自体に疑念があるといえるでしょう。


もっとも、強国が弱国を踏みにじって当然と言った帝国主義的世界観においてはこういったことは珍しくなく、それを肯定するなら1905年に日本は竹島を領有したことは正当だと主張していいでしょう。
ただし、そういう帝国主義的世界観を肯定するのなら、日本から分離独立した韓国が主張した1952年の李承晩ラインにも正当性を認めるべきでしょうね。

*1:日本の外務省は、大韓帝国勅令第41号について「石島」という表現が突然出てきたと強調していますが、日本の史料でも「磯竹島」が突然出てきたり「松島」が史料によって鬱陵島を指したり、竹島を指したり、としていますので特におかしくはないと考えます。

*2:日本側では発音の類似など関係ないと主張することが多いですが、そのくせ「りゃんこ島」=リアンクール島(現在の独島(竹島))説は、発音で判断したりしているわけでダブスタも甚だしいと言えます。

*3:http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g08.html

*4:http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/g_ryoyu.html

*5:http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20120930/1349007914

*6:このフレーズに噛み付いてくるバカがいますけど、例えば1877年太政官指令における「松島」は現在の独島(竹島)とほぼ100%断定できますが、島根県は「松島」=「鬱陵島」説を採っており、「松島」と現在の島との対応関係に諸説ある一例として挙げられます。

*7:1905年1月28日閣議