千田夏光氏「従軍慰安婦」出版以前の慰安婦に関する記述

佐木隆三氏の「娼婦たちの天皇陛下 (1978年)*1には、同じ題名でのエッセイが収録されており、その初出は1972年6月です。

「娼婦たちの天皇陛下」P8-10
 一年ほど前に、かつて日本軍の慰安婦だった女性に会った。いまは、小さな店を経営している。戦前の遊郭である辻町で娼婦をしていて、沖縄守備軍に徴用されたのだった。彼女は慰安婦だったことを語るよりも、むしろ辻町の遊女であったことを、話したかったらしい。沖縄の遊女は、按司たちが知行所から女を徴発して蓄え、互に交換して遊楽したことから発生した(宮城栄昌著『沖縄女性史』)。中世の末期ごろ貿易船の男たちを相手にするようになり、十七世紀に入って薩摩支配がはじまってからは、武士は打ちひしがれて酒色にふけて、農民は搾取の強化に苦しんで娘を売って急激にふえた。やがて一六七二年に公娼制度が認められ、那覇の辻と仲島に遊郭が置かれた。遊女たちの一部は、中国大陸から来る冊封使や、薩摩藩の在番奉行たちに現地妻としてあてがわれた。そして明治の琉球処分で中国と縁が切れたから、遊女たちは日本人の"オンリー"になるのだ。

― 一八七六(明治九)年六月十九日の東京曙新聞記事によると琉球藩庁に勤務している官吏には、すべて帰国を命じている。その原因は、琉球は文弱で風俗温和、淫風がおこなわれて、婦人はとても男子を尊敬するので、官吏の在勤が長くなると、あるものは倦怠におちいり、あるものは色に迷うようになるという点にあった。官吏の遊び相手になる婦人といえば、尾類(ズリ)たちであった(『沖縄女性史』より)。

 本土から来る官僚や商人の現地妻として重宝がられた辻町の女たちは、太平洋戦争の末期に十万もの大軍が沖縄守備にあらわれたことで、こんどは慰安婦として重宝がられたわけだ。娼婦なりにプライドはある。わたしに話してくれた元慰安婦は、「一晩に一人しか客をとらないで奥さんにみたいに尽していた」ころを強調する。要するに男の性欲を排泄させる道具でなく、女の情愛を示していたと言いたいのだ。
「それがさ、慰安所にやられてからは、一日に何十人も相手させられて、それはもう、ズリなんかじゃないよね、こうなると・・・」と、それから先は口をつぐむ。尾類とは文字どおり、人間でないという呼びかたである。年配の男性は、いまでも娼婦をズリという。しかし何と呼ばれようと客に情愛を捧げてきたと元慰安婦は言いたいのであり、軍隊に徴用されてからは人間以下のズリのさらに下の存在だったというのだ。
 沖縄戦が激化し、日本軍は南端へ敗走を続け、このとき慰安婦たちも行動を共にする。朝鮮人が沖縄へ送りこまれていて、不運な娘たちは辻町のズリたちよりもさらに惨めだった。何しろ腰が立たなくなったのをかついでトラックに乗せ、順番を待つ次の部隊へ運んでまたベッドで身体を開かせたという。
 この朝鮮人慰安婦も辻町から来た慰安婦も、激戦のさなか補助看護婦や炊事婦として酷使される。そして慰安婦としての役目も、また・・・。話してくれた彼女は、ある上等兵を恋して、負傷して動けないのと看病しているうちに壕にとり残され、やがて米軍の捕虜となった。このあたりの話になると、彼女は口ごもる。口ごもりながらも言う。
「自決するつもりだったさ。天皇陛下バンザイして、二人で手榴弾をコチッコチッぶつけたのに、破裂しないでしょ。せっかく天皇陛下バンザイしたのに死ねないもんだから、・・・」
 おそらくこのくだりは、彼女の作り話であろう。壕の中で上等兵と抱き合いながら、ひたすら生きのびたいと願ったにちがいない。彼女はこのように言うことでしか、自分を救えないのだ。
 かつての辻遊郭は、いま波之上と呼ばれて、AサインバーやAサインホテルが林立する。このあたりは、沖縄でいちばん高給な売春街ということになるだろう。いや、売春に高級も低級もない。値段の高い一帯、と言いなおしておこうか。二〜三年前から、「波之上はイッパツ十ドル」といわれていた。ここのAサインバーで会った女性は、戦前のことを憶えている年齢で、こんなふうに言っていた。
「なにか行列ができているでしょ、ウチも並ばんでもええの、と母さんに言ったら、家に居た大人たちがみんな、したたか笑うわけ。配給は配給でも・・・ね。あっちの配給行列だったさ」
 日本国内で、軍隊の慰安所があったのは、沖縄だけである。本土にも慰安所として機能する公娼地帯があったが、少なくとも行列はなかっただろう。だが、沖縄には行列が作られるほどの慰安所があった。輝ける皇軍の兵士たちが昼間から性の排泄のために行列を作っても、住民の目を気にしなくて済む。なぜなら、実質的な植民地なのだから・・・。

主題は沖縄の娼婦に関することで当然に米兵相手の話などが出てきますが、戦後30年足らずの時期ですから日本軍慰安婦の話も出てきています。朝鮮人慰安婦にも言及されており、彼女らが悲惨な境遇にあったことも、また慰安婦を「軍隊に徴用されて」と書いており、当時の認識がよくわかります。
日本国内の慰安所は沖縄だけだった、と言った誤りはありますが、研究の進んでいなかった1970年代の作ですから責められるべき誤謬でもありません。

*1:徳間文庫版、1982/9/15を参照