当事者が書いた戦記物を読む時の注意

慰安婦問題や南京事件に限らず、当事者が書いた戦記物一般に言えることですが、基本的に全ての事実が過不足無く書かれていることはありません。

記憶の問題

当事者の書く戦記物は、当時のメモが残っていればいい方で多くは後年になってから記憶を辿って書かれています。そのため曖昧な部分は少なくなく、時に前後関係が逆転していたり所属部隊を間違えたりすることがあります。曖昧な記憶で書くのを避けようとして資料にあたると、今度は資料に引きずられて記憶がゆがむこともありますし*1、そもそも資料が間違っていることも少なくありません*2
長期にわたる従軍では所属部隊が変わることもめずらしくありません*3
知人の祖父はインパール作戦に参加したと言っていましたが、所属は「菊」つまり第18師団と言っていました。第18師団は直接的にインパール作戦には参加していませんので、フーコン辺りの記憶をインパール作戦として記憶しているのか、あるいは当時ビルマにいた兵士は支作戦でもインパール作戦に参加したと感じるほど、インパール作戦が有名だったのかも知れません。あるいは中国戦線では第18師団所属だったのが、ビルマでは別の師団に所属になったのかも知れません。結局詳しく話を聞く機会もなく、その方は亡くなられたのですが、多少話のつじつまが合わなくても、それを捏造だとか思わないのが普通です。

関係者への配慮

上官のデタラメな指揮で犬死にしたり、あるいは本人の非違行為に伴って殺されたり*4した場合、そういう事情を遺族には伝えないのが普通です。戦記物を書く際にもこういった配慮は働きます。遺族以外に本人が生還した場合も、その人の逸脱行為についてははっきり書きませんし、場合によっては横暴非道に振舞った上官が復員後ある程度の社会的地位についていたりすることもあります。
このため、特に不名誉な行為については名前を伏せたり、他部隊のことにしたり、あるいは全く書かなかったりすることがあります。従軍慰安婦の強制連行を告白した吉田清治氏が場所や時期を変えて書いたのは、こういった事情であろうと容易に想像できるのですが、政治性に取り付かれているネトウヨらにそういう一般的な想像力を期待すること自体が無意味でしょうね。

高橋三郎教授*5は「「戦記もの」を読む」(1988年)の中で以下のように述べています。

(P56-58)
 「戦記もの」のタブー
 郷土部隊戦記に限らず、「戦記もの」にはいつの間にかあまりに悲惨なこと、あまりに忌まわしいことは書かないという一種のタブーができあがり、このタブーは昭和五〇年代まで続いていきます。旧軍関係者からの圧力もあったでしょうが、遺族への配慮によるものが大きかったと思います。戦没者が二度と戻らない以上、わざわざ遺族に二度悲しい思いをさせる必要はないではないかと、生き残った人たちは自然に考えたようです。
 しかし、このタブーは、結果として上官や軍上層部への批判を控えさせることにもなりました。部下がそのために余計な犠牲や苦しみを味わわされることになった横暴な上官や無能な指揮官もいたでしょうが、そうした上官たちについてはぼかされるか、まったく書かれないのが普通となりました。もちろん当時は関係者の多くが生存していたこともあり、それに対する配慮ということもあったでしょうが、主な理由は、そうした上官のせいであるいは死ななくてもよかった肉親が死んだと考えたら遺族はたまらないであろうという配慮だったようです。書く側の意図とは別に「戦記もの」は肉親の消息を尋ねるというかたちの読まれ方もしているからです。あまりにも悲惨なことや忌まわしいことは自分たちの胸におさめておこう、それが生き残った者のつとめだという考え方は、現在に至るまで戦闘体験者に共通したものです。
 「戦記もの」のタブーのなかにはもちろん自分の不名誉になるようなことも入ります。昭和三〇年代の初め、中国からの帰還兵たち数人によって『三光』(神吉晴夫編、昭和三二年、光文社)や『侵略』(中国帰還者連絡会・新読書社編、昭和三三年、新読書社)が書かれました。中国における残虐行為を告白したものですが、このときこれらの本を非難する人たちの反響はヒステリックなものでした。結局、右翼団体の干渉もあって販売を一時中止したはずです。現地住民に対する強姦や殺人、人肉食などについて書かれるようなったのは昭和五〇年代以降のことです。

体験を人に話せるようになるまで

従軍慰安婦を誹謗中傷する二次強姦魔たちがよく使う論法として「何で戦後50年も経ってから言い出したのか?」というものがあります。しかし、辛い体験をした人が、その体験を人に話せるようになるまでには長い時間がかかるのが普通です。

同じく「「戦記もの」を読む」から。

 空襲の記録
 第二次世界大戦中の空襲や戦災による犠牲者、死者約五〇万人、負傷者約一二〇万人、そして罹災者約九七〇万人と推定されています。しかし、戦後ほとんどその体験は語られることもありませんでした。占領中にはもちろん報道管制の対象になっていましたが、その後も語られなかったのはなぜでしょうか。早乙女勝元は、あまり辛くて語られなかったのだと述べていますが、戦争における加害者意識と被害者意識の問題ともからんで、空襲体験が語られなかったことの意味はそれ自体考察を要する問題かもしれません。
 いずれにせよ、昭和四六年に空襲や戦災の記録運動が爆発的に全国に広がっていきます。そのきっかけは早乙女勝元という一人の人間の執念とも言えます。昭和二〇年三月一〇日の東京空襲にこだわり続ける早乙女は昭和四五年「東京空襲を記録する会」を発足させ、昭和四六年、自ら『東京大空襲』(岩波書店)を書きます。この本がまたたく間に版を重ねたことも刺激となり、横浜にも空襲を記録する会ができます。こうして、この運動は全国各都市に次々に広がり、全国五〇余りの都市に記録する会が結成されるまでになります。

空襲と言う被害体験を共有する者が周囲に大勢いるような経験でさえ、それを本にするという動きは戦後25年も経ってからです(原爆に関する本は昭和20年代からそれなりに出てますが)。人肉食や虐殺などの加害体験が書かれるのは昭和50年代か1980年代以降でそれを踏まえると、元慰安婦の名乗り出が1990年代初頭であることにそれほどの違和感はありません。


「戦記もの」を読む 戦争体験と戦後日本社会 (ホミネース叢書)

「戦記もの」を読む 戦争体験と戦後日本社会 (ホミネース叢書)

ちなみに高橋三郎教授の「「戦記もの」を読む」は1988年初版(執筆時は助教授)ですが、それまでに書かれた戦記ものに関して色々記載してありますので、なかなか興味深い本です。

*1:混戦の結果、所属の違う部隊と合流した場合などは本人の記憶と部隊の記録が合わなくて当然ですが、本人が勘違いしたままだと部隊記録の方に合わせて記録を歪めることもありえます。

*2:中隊や小隊の動きなどが間違っていることもありますし、戦闘で四散した状態を把握できていないものもあります。

*3:2013/6/7 コメント蘭の指摘により修正。田中さんありがとうございました。

*4:強姦しようとして殺されたなど

*5:社会学広島国際学院大学京都大学名誉教授