差別との戦いに対する薄っぺらい認識

こういう発言がありました。

町山智浩‏@TomoMachi
ローザ・パークス以前にも白人席に座った黒人は何人もいた。しかし何も起こらなかった。パークスの行動は、キング牧師によって人種隔離廃止運動へとつながったから、歴史に残った。実際に世の中を変える運動にしないなら、意味がないですよ。RT @claw2003: ローザ・パークス

https://twitter.com/TomoMachi/status/346046862878470145

ローザ・パークスとは、アメリカ・アラバマ州モンゴメリーでバスに白人優先席があった1955年、黒人だからという理由で白人に席を譲らされることを拒否したために逮捕された女性です。この事件の裁判を機会に、女性政治会議(WPC)が黒人にバスのボイコットを呼びかけ、全米黒人向上協会(NAACP)もこれを支持しました。黒人社会全体がボイコットに協力し、翌1956年11月に連邦最高裁が人種隔離法を違憲とする判決を下すまでボイコットが続きました。この時の一連の抗議運動で頭角を現したのが当時26歳だったキング牧師です。
ローザ・パークスキング牧師も当時は全く無名でした。ボイコットを呼びかけたものの、黒人たちが協力してくれる保証もありませんでした。「実際に世の中を変える運動」になるかどうか何の保証もありませんでした。

実際、ローザ・パークスは1943年に似たような経験をしていますが、周囲の反応は黒人ですら「後ろに回って黒人用ドアから入ればいいのに」という態度をとっています。
町山智浩氏のツイートは日の丸・君が代問題に対する教師の態度に関する話題から出ているのですが、1940年代の多くの黒人たちの態度と似ていますね。「実際に世の中を変える運動にしないなら、意味がないですよ。」という発言は、決して、1950年代の黒人たちの態度に及びません。

1955年のモンゴメリーの黒人達は、他人事として冷笑するのではなく、反差別に立ち上がったのです。それがゆえにローザ・パークスキング牧師も人種差別廃止運動に名を残したわけです。


さて、1955年のローザ・パークス事件の直前にも黒人女性がバスの座席を譲らなかったことで逮捕されていますが、彼女はボイコットのきっかけにはなりませんでした。それには次のような事情があります。

(「黒人差別とアメリカ公民権運動」ジェームズ・M・バーダマン、集英社新書、P68-70)
 この当時、NAACPは、バスの人種差別撤廃のために、訴訟を起こすことで法的に問題を解決しようと試みていた。この実験的なテストケースを成功させるためには、まず裁判に耐えうることはもちろん、社会的にも関心を引くことになるので、マイナスのイメージがない人物を当事者にすることが必要だった。
 他の州では、バスの人種隔離法に対するこのようなテストケースがもっと早い時期から行われていた。それまでに、モンゴメリーでテストケースになりかけたのが、クローデット・コルヴィンの事件だった。一九五五年の春、彼女はバスの座席を譲ることを拒否したため、車両から引きずり降ろされ、逮捕された。NAACPはこの事件をテストケースとして提訴しようとしたが、彼女が未婚のまま妊娠していることがわかったため、その計画はすぐに消えてしまった。テストケースが法律と社会の目にさらされる重圧に耐えられるように、原告はバスの席を譲らなかったという以外には一切何の問題もない人物である必要があったのだ。
 運転手ブレイクはバスを降り、警官が来るのを待っていた。パークスは静かにすわって、これから起こることについてはできるだけ考えないようにしていた。彼女は自分がNAACPが探していたバスでの人種差別撤廃をめざすテストケースの原告になるかもしれないというようなことは微塵も考えていなかった。もしそのようなことを考えていたら、バスを降りていたでしょうと、彼女は言っている。しかし彼女はそこにとどまることを選択したのだ。
 まもなく二人の警官がやって来て、その一人がなぜ立たないのかと尋ねたが、そのときのやり取りは彼女にとって忘れられないものになった。彼女は「なぜあなたがたはわたしたちをこんなにいじめるんですか?」と反対に訊いた。警官は「さぁ。しかし、規則は規則なんだ。逮捕する」と答えるのが精一杯だったと自伝のなかで振り返っている。
 彼女は留置場で、自分の罪がアラバマ州のバス人種隔離法違反であることを知った。指紋を取られ、顔写真を撮られ、牢に入れられた。やっと許可がおりて、家に電話すると、夫も母親もそろっていて、「殴られなかったかい?」と母親がまっさきに心配した。「大丈夫、殴られてないわ。でも牢屋に入れられてるの」彼女は言った。しばらくして夫とNAACPの会長E・D・ニクソン、白人弁護士クリフォード・ダーと彼の妻ヴァージニアが到着し、保釈金を払って彼女は釈放され、裁判は翌週の月曜日、一九五五年十二月五日に決まった。その夜遅く家に戻ったあとでも、彼女はこの逮捕がバスの人種隔離法に対するテストケースになるとは思ってもみなかった。
 E・D・ニクソンは、これこそNAACPが待ち望んでいた事件だと確信した。ローザ・パークスに前科はないし、ずっと真面目に働いてきて、結婚もしていた。つまり彼女は原告として非の打ちどころがない、完璧な人物だったのだ。「差別がこんなすばらしい恵みを与えてくれたとは」ニクソンは心を震わせて、喜んだ。

クローデット・コルヴィンもバスで白人に席を譲らなかったために逮捕された差別政策の犠牲者でしたが、彼女が未婚で妊娠していたという、差別とは直接関係しない理由*1で「ローザ・パークス」にはなれませんでした。
なぜ反差別団体がクローデット・コルヴィンをテストケースとして支援しなかったかと言えば、未婚の妊娠をあげつらい、それをもって黒人を蔑視する被害者非難が当然に予想されたからです。実際にクローデット・コルヴィンをテストケースとして支援した場合にどうなったかはわかりません。ひょっとしたら、クローデット・コルヴィンに対しても黒人たちはバスのボイコットに協力したかもしれません。ローザ・パークス事件が大きな運動になっていったのは、数多くの無名の黒人達や差別に反対する非黒人たちの協力があったからです。それはテストケースがローザ・パークスであったからなのか、黒人差別に対する怒りが沸点に達していたからなのか、単純に判断することはできないでしょう。
「実際に世の中を変える運動にしないなら、意味がないですよ。」という薄っぺらい一言で片付けられるような話ではありません。*2

*1:1950年代にはそれがスキャンダルであったとして

*2:id:quagma さん、やっと書きました。http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/qua_gma/status/346194946191138816