性暴力の記憶はなぜ記録されないのか

(「黄土の村の性暴力」P232、日本軍性暴力にかんする記憶・記録・記述 石田米子)

 性暴力の記憶はなぜ記録されないのか。今の日本でさえ親告罪である性暴力の訴えは著しく難しいのだから、なぜ記録されないのかという問いは、たちまち自らの問題にはねかえってくるものであり、その自覚なしには、性暴力の記憶・記録・記述における問題は見えてこない。日本軍の侵略を受けた中国の農村で、性暴力被害を受けた女性たちに即して考えるとき、彼女たちを沈黙させてきたものは何なのか。日本軍に支配された村で、喉元に刃を突きつけられて屈服させられていった村、そこにつくられる対日協力のための暴力を伴う秩序の中で、一人ひとりの女性がどのようにして被害者となったかの実態が次第に見えてきたとき、記録されない、記述できない構造もまた見えてくる。この記録の空白をつくる構造ははたして「貞操観念」というようなものだけで説明できるのだろうか。逆に生き死にの問題に比べて、強姦などは子が産めない性病にさえかからなければ大問題ではないと考えられたのだろうか。家族と村とがかばいあい守ろうとしたものは何であったのか。まぎれもなく侵略してきた国家・軍隊こそが被害の構造を強いたのであるが、抗日する民族・国家もまた集団の生活と集団の自尊のために女性個人の被害の個別性にこだわりきらなかった。「敵の女」であることによって人間としての尊厳を蹂躙された女性たちは、「敵によって蹂躙された女」であることによって、その存在自体が共同体の名誉を傷つけるものとなったのである。文字を知らない、村の歴史も知らない性暴力被害者の女性たちが、その記憶を自ら語りはじめ、自らの歴史と自尊を取り戻しはじめたことで、被害と加害のモザイクのような関係と沈黙を強いてきた構造が一つ一つ姿を現し、ここにかかわるさまざまな人びとに自らの人生と向き合わせた。沈黙を破った被害女性たちによって見えてきた日本軍の侵略と住民支配、性暴力被害の実態により、彼女たちを記録しなかった史料は今までとは違う読み方をされなければならなくなったのである。

性暴力の性格を踏まえて史料にあたることが必要ということですが、現代日本における性暴力被害者に対する冷酷な社会の態度を見る限り、日本の社会が慰安婦問題に向き合うほどのモラルに達していないように思えます。
地方自治体で慰安婦問題否認論に対する声があがっているのは評価できますが、否認論者の筆頭である安倍晋三氏が首相であり、安倍自民党が今回の参院選でも圧勝するような社会である以上、日本社会にモラルを期待することは無いものねだりかも知れませんね。


黄土の村の性暴力―大娘(ダーニャン)たちの戦争は終わらない

黄土の村の性暴力―大娘(ダーニャン)たちの戦争は終わらない