売春業者と癒着する警察

(「戦前の日本」武田知弘、P23-24)
 貸座敷業はどこでもやっていいというわけではなく、開業できるのは国が許可した場所に限られていた。この合法的な売春地帯は、東京では吉原、大阪では飛田新地などが有名である。
 業者は、娼妓たちの名簿を提出し、定期的に性病検査を受けさせる義務を負った。また、公娼になるには、尋常小学校卒業以上の学歴が必要で、親の経済が逼迫していること、親が不動産を持っていないことなどの条件が設けられていた。当時の公娼は、実家の家計を助けるためにやむなく身売りされるケースが多い。前述の条件は、娘を簡単に売らせないために作られたものだったのだろう。
 そうして公娼になると、束縛一色の暮らしを余儀なくされた。
 公娼は指定された地域以外に住むことはできなかった。また、貸座敷業者の許可なしには外出することもままならなかった。給料の大部分は前借金の返済に充てられるため、経済的な自由もない。公娼たちはカゴの中の鳥さながらの日々を送りながら、客をとり続けたのである。
 こうした不自由な暮らしを脱しようとしても、そう簡単に抜け出すことはできなかった。貸座敷を脱走して警察に駆け込んでも、警察は業者と癒着していた。警察は話し合いをさせるという名目で業者の下に送り返すか、勾留所に一晩泊めて廃業を思いとどまらせるのが常だった。
 それでも運がよければキリスト教系の慈善団体などの手を借りて、廃業することもできたが、それは極めて稀なことだった。
 大正14年の調査では、全国に貸座敷業者は1万者あり、そこで働く娼妓は5万人もいた。昭和初期には、不景気のため、東北地方などの農村では身売りされる娘が急増した。そのころの小学校卒業者の、少なくとも76人に1人が売春をしていたともいわれている。

鄭陳桃氏は台湾で警察に連れ去られたという証言をしていますが、「警察は話し合いをさせるという名目で業者の下に送り返すか、勾留所に一晩泊めて廃業を思いとどまらせる」に類似したことかもしれません。