日中戦争・中国に負けていないという日本の虚構

 日本で敗戦と言えば、太平洋戦争での敗戦を指すことが多いと言えます。一般人が映画などで触れる日本の戦争映画は、戦艦大和や本土空襲、原爆、せいぜい南方占領地などを主題にしたものが多いため、中国戦線に関する認識がかなり希薄だと言えるでしょう。このため、“日本はアメリカに負けたのであって中国には負けていない”と言った自慰的思考にはまる人は少なくありません。日本極右が排外感情を煽ろうとするとき、国内矛盾を転嫁するスケープゴートとして、中国を格好のターゲットとするのもそのためです。ですが、“日本はアメリカに負けたのであって中国には負けていない”という日本極右の主張は歴史的事実なのでしょうか。

日本軍侵攻に救われた共産党

 1937年からの日中戦争は日本では「支那事変」と呼ばれ、日本政府は「事変」であり「戦争」ではないと唱えていました。日本海軍にとっての主敵は米英、日本陸軍にとっての主敵はソ連であって中国を主戦場にするつもりはありませんでした。中国軍など日本軍が少し本気を出せば簡単に降参する、という尊大な慢心が「事変」という言い方に現れているとも言えます。日中戦争国際法上の「戦争」にしないことで第三国の支援を得るという意味は日中双方とも共有していましたが、中国側が純粋に第三国支援の必要性から国際法上の「戦争」を避けたのに対し、日本側には第三国支援の必要性の他に中国を軽視した慢心があったという点で異なります。
 しかし、簡単に降参すると思っていた中国が、北京、上海、南京と大都市を失っても抗戦意識が衰えなかったことで、日本側の計算が狂い始めます。特に日本国民の中国に対する軽侮・優越意識を多分に含んだ熱狂は、それを煽った政府・軍部のコントロールを超えて拡大し、対中国講和条件は中国側が容易に飲めないような過大なものとなり、出征兵士の占領地での横暴を加速させ、「英霊に申し訳ない」「犠牲を払った日本人が中国で優位を占めるのは当然」という感情論が蔓延していきます。これにより、日中戦争は長期化していきます。

 日中戦争直前の中国の状況は、1926年に国民革命軍総司令に就任した蒋介石共産党を「内憂」、日本の侵略を「外患」とみなし、まず共産党を排除した後に日本軍の侵攻に対処する「安内攘外」論を主張しています(1931年)。当時、満州事変など日本の侵略により東北4省を失い、華北にも日本の侵略が迫っていましたが、それでもなお蒋介石中国共産党壊滅を優先した政策を採り続けました。1935年、蒋介石江西省瑞金を中心とした共産党根拠地を包囲攻撃し、中国共産党は遂に瑞金を放棄し撤退を開始します。当初はただの撤退でしたが、国民政府軍の執拗な追撃を振り切り、時に地方軍閥を脅かすなどその存在感を示すようになります。巧みな機動戦で蒋介石を翻弄した毛沢東は、この撤退戦の中で中国共産党の主導的な地位を確固たるものにしています。最終的には陝西省の根拠地の部隊との合流を果たし、苦難の撤退戦は「長征」と呼ばれるようになるわけです。長征は、それだけでも多くの研究書が書かれるくらい複雑な事件ですが、日本の歴史修正主義者は「ただの逃亡」扱いして軽視します。研究書の一冊でも読めば「逃走」の一言で片付けられるような事件でないことは明らかなのですが。
 長征後も国民政府は中共根拠地に対する攻撃を企図しますが、日本による侵略が華北に迫る中で既に世論は抗日優先に傾きつつあり、1936年の西安事件国共合作が事実上成立するに至ります。この西安事件は中国世論が国共合作を支持し一致抗日に傾いたことを示す事件でしたが、日本はその意味を理解することが出来ず侵略政策を続けて、盧溝橋事件へと至ります。そして中国軍を軽視していた日本軍は激しい抵抗にあい、泥沼の長期戦に引きずりこまれることになります。
 ある意味で、盧溝橋以前の日本軍の中国侵略政策が、国民政府軍に攻撃されていた中共を救った、と解することもできるでしょう。しかし、そのような解釈は“原爆のおかげで日本は民主化された”というような皮肉的・冷笑的な解釈であって、飲み屋談義としてならともかく、歴史認識としては間違っていると言わざるを得ません。
 国共合作によって軍事的に中国軍の戦力が飛躍的に増大したかというとそうではありません。もともと100万人以上の国民政府軍に対して中共は5万人程度の兵力しかありませんでしたから戦力だけで見ても国共合作の効果は見えません。国共合作の効果は、中国全土が一致団結して抗日戦争に協力した点にあります。それまで日本軍の侵略に対して、地方軍閥や時には中央政府が日本側に妥協して領土や権益を失ってきましたが、国共合作後は民意の手前、そういう妥協がほぼ出来なくなりました。日本軍と妥協する者は売国奴だという認識が一般化された結果、そこそこの規模の軍閥蒋介石との協力を強化していったわけです。一撃すれば中国軍は降参すると思っていた日本軍にとって、質の低い小軍閥くらいしか日本に降ってこない状況は予想外でした。多くの軍閥は、自己の存在意義をかけて日本軍と戦い、上海、南京、徐州などの大都市失陥後も頑強に抵抗することになります。

毛戦略の第三段階は実現せず?

 「その時、共産党は何を考えていたのか。毛沢東は「持久戦論」で次のように主張した。「日本は強力な帝国主義国家で、軍事力・経済力は東洋一であり、中国は日本に速戦速勝できない。しかし日本は国土が小さく、人口、資源が欠乏し、長期戦には耐えられない。したがって、敵の後方で遊撃戦を展開し、敵の内部崩壊を促進すれば、中国が最後に勝利する」
 「持久戦論」は戦争を三段階に分ける。第一段階は日本軍の戦略的進攻と中国軍の防御の時期である。第二段階は日本軍と中国軍の戦略的対峙(たいじ)の段階だ。第三段階は中国軍が運動戦と陣地戦で日本軍を殲滅(せんめつ)する最終段階である。
 共産党によると、第一段階は37〜38年、第二段階は38〜43年、第三段階は43〜45年となっている。しかし、日本軍は44年から45年にかけて50万人の兵力を動員し、日中戦争で最大の作戦となった「大陸打通作戦」を実行して洛陽や長沙を攻略した。中国の戦場では45年においても日本軍は優勢であった。現実の日中戦争では第三段階は実現せず、日本軍が太平洋で対米戦争に敗北することにより、中国における戦争は終わった。」*1防衛大学校の村井氏は述べていますが、この程度の認識では自衛隊中国軍と戦争しても、また負けることになるでしょう。
 アルデンヌ攻勢を挙げてドイツ軍は優勢だったと主張するようなものですが、大陸打通作戦は戦略目的という意味では何も達成することが出来なかった失敗です。主な戦略目的は連合軍飛行場の破壊と南方からの陸路開通とされますが、それを高次で見れば、対日戦略爆撃の抑止と南方シーレーンの補完だと言えます。前者はサイパン陥落によって破綻し、後者は結局海上輸送の代替となりえず、いずれも成功しなかったわけです。確かに大陸打通作戦で日本軍は暴れまわったと言えますが、それはただ暴れまわっただけで、命と資源の浪費に過ぎませんでした。そして何より、このような無駄な大作戦に多くの兵力をつぎ込んだ結果、他の占領地の兵力が希薄になり、そこを中共軍に衝かれて多くの占領地を失っていきました。1943年以降、特に1944年になってからは中共の攻勢は著しく、占領地末端の地方都市は中共の圧迫を受け失陥する場所が増えていきます。日本軍主力は勝ち続けていながら、いつの間にか周囲は敵だらけになっていたわけです。項羽やナポレオンが戦場では連戦連勝しながら最後には戦争に負けたのと同じです。
 1945年春以降になると中国戦線でも明らかに日本軍は劣勢になり、日本軍は主力を海岸部に引き上げ戦力の再集結を図ります。占領地の放棄と引き換えに主戦力の温存を図ったわけですが、温存された末端の兵士たちは戦闘に負けたという経験を経なかったため、中国軍には負けていないという錯覚を抱くようになります。しかし、占領地を維持できずに放棄したのなら、それは負けということです。夏になると中共軍の攻勢は大規模化し、日本軍は次々と占領地を失いますが、支那派遣軍は最終的な破局を迎える前に日本本国が無条件降伏したため、破局を免れました。1943年以降、遅くとも1944年には「毛戦略の第三段階」に入っていましたが、日本軍を殲滅する前に日本本国が降伏してしまったに過ぎません。

 ところで村井氏はこのようなことを言っています。

 日中戦争中、国民党の地方軍閥は対立抗争を繰り返し、共産党軍は地方都市を占領して日中戦争の主要な戦闘には参加せず、37年の上海戦、38年の徐州戦、武漢三鎮攻防戦にもその後の長沙戦にも、ビルマ戦線にも出ていない。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130807/plc13080703200006-n1.htm

 1937年以降の日中戦争において、国民党の地方軍閥が対立抗争を繰り返したと言うのは事実に反します。むしろ日中戦争をきっかけに蒋介石への権限委譲が進み地方軍閥の中央軍化が為されています。末端やあるいは政治闘争と言ったものはありましたが、それは日本内部でもあった話です。国民党と共産党が対立し、時に戦火を交えたことは事実ですが、それでも国共合作が崩壊に至ったわけではありません。「共産党軍は地方都市を占領して日中戦争の主要な戦闘には参加せず」というのも、遊撃戦を理解していない戯言ですね。両軍の主力正規部隊が戦場で会して正面から激突する会戦だけが戦争ではありません。
 ベトナム戦争ではベトミンと米軍が正面から激突する会戦などは惹起していません。それでも米軍は負けました。村井氏の脳内ではベトナム戦争は米軍の大勝利なのかもしれませんが。

 日本軍は日中戦争のほぼ全期間にわたって中国戦線に100万人規模の軍隊を張り付け続けました。このうち会戦形式での戦闘を想定した部隊は武漢の第11軍くらいで、その他は占領地警備が主任務と言っていい状態でした。例えば、第1軍は山西省、第12軍は山東省を警備する部隊でしたが、国民政府軍がほとんど皆無のこの地域にこれらの部隊が必要とされたのは、最後まで中共軍に対する備えが不可欠だったからです。中共が抗日戦争で何もしなかったのなら、これら中国駐屯の日本軍は太平洋で友軍が苦戦しているのを尻目にただ遊んでいたことになり、大元帥含めた大本営はアホの集団ということになります。
 実際には、これだけの警備兵力を置かなければ占領地の維持すら覚束ないほど、中共軍の脅威は深刻だったのです。

 第二次世界大戦における日本軍の戦死者約240万人のうち、中国戦線での戦死者は約46万人である。中国一国と戦っている限り、日本本土は攻撃されず、戦死者が耐え難いまでに夥(おびただ)しい数になることもなかっただろう。日中戦争の勝敗を決した最大の要因は、米国の軍事力にほかならなかった。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130807/plc13080703200006-n1.htm

 村井氏にとって、「中国戦線での戦死者」約46万人は大した数ではなかった、という認識のようです。国家にとって兵士の命などその程度の価値しかないのでしょう。脳内大戦略で戦争を語るような軍オタにも似たような傾向が見受けられますが。

中共の戦い

中共による抗日戦争は、多くが遊撃戦です。戦闘として有名なのは山西省攻防戦の一部である平型関の戦闘や同時多発させた遊撃戦攻勢である百団大戦が知られていますが、それだけしか知らないと遊撃戦の本質を見落とすことになるでしょう。日本軍や傀儡軍の大隊・中隊・小隊規模の討伐隊を伏撃したり、輜重部隊や輸送路に対する攻撃などが中共軍の戦闘の基本と言えます。敵の弱点を叩くという極初歩的な戦術です。
類似する戦法を海上で行うのが潜水艦と言えるかもしれません。潜水艦による海上輸送路への攻撃は日本を確実に追い詰めましたが、潜水艦による攻撃などにいちいち海戦名は付きません。中共の遊撃戦も個々の小さな戦闘に名前は付きませんが、確実に日本軍を追い詰めていきました。
米軍の潜水艦が名のある海戦で活躍しなかったからと言って軽視する論者がいれば、相当バカにされるでしょうが、遊撃戦となるとそれが理解できなくなる人たちが大勢いるのは困ったものです*2

とは言え、名前のないものを認識するのが難しいのも道理です。そんなわけで中共軍の主導した戦闘でそれなりに有名なものを列挙しておきます。
平型関戦闘(1937年9月25日)、晋察冀軍区反囲攻(1937年11月-12月)、晋西北区反囲攻(1938年3月)、神頭嶺戦闘(1938年3月16日)、晋東南反九路囲攻(1938年4月)、保衛黄河河防作戦(1938年5月-1939年)、馬家園戦闘(1938年10月-11月)、斉会戦闘(1939年4月)、陸房戦闘(1939年5月)、梁山戦闘(1939年8月2日)、陳庄戦闘(1939年9月)、北岳区冬季反掃討(1939年10月-12月)*3、晋西北区夏季反掃討(1940年6月-7月)、百団大戦(1940年8月-12月)、沂蒙山区反掃討(1941年11月-12月)、晋西北区春季反掃討(1942年2月-3月)、冀中区五一反掃討(1942年5月-6月)、田家会戦闘(1942年5月)、沁源囲困戦(1942年11月-1945年4月)、蘇中反清郷(1943年4月-12月)、甄家庄戦闘(1943年10月)、車橋戦闘(1944年3月)、春季攻勢(1945年1月-3月)、子牙河戦役(1945年6月-7月)、安陽戦役(1945年6月-7月)

*1:http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130807/plc13080703200006-n1.htm

*2:米軍潜水艦が日本の軍艦撃沈で名を馳せてる事例自体は少なくありませんが、潜水艦の価値を軍艦撃沈の多寡で判断するのはやはり誤った認識と言えるでしょう。

*3:阿部中将が戦死した黄土嶺戦闘はこの冬季反掃討の一環。