「私たち皆は巨大な安倍晋三になる」事態を避けるために

日本軍慰安婦問題について書いているエントリに見境なく、“韓国はベトナムに謝罪してない”とかいったコメントをつける嫌韓バカの皆さんはきっと、この意見に賛同するはずです。

[特派員コラム] 我らが内なるヤスクニ/キル・ユンヒョン

(略)
 しかし神社からA級戦犯分祀されさえすれば、すべての問題は解決されるのだろうか。 東北アジアの平和と安定に特別な利害関係を持たない異邦人にとってはヤスクニはどうなろうが関係のない問題であろうか。 ここまで考えた時、私たちがヤスクニ問題を人類皆が理解できる普遍的な言語で説明することに失敗しているのではないかという気がした。
 哲学者の高橋哲哉 東京大教授は2005年に出した<靖国問題>という本で、神社の本質を‘感情の錬金術’という言葉で表現したことがある。 息子が戦争に出て行き亡くなることになれば、母親は耐え難い悲しみを感じることになる。 しかし天皇を通じて靖国で息子が日本を守った‘君臣’として祀られる瞬間、苦痛は言いようのない喜びに置換され、それで息子の死という苦痛はもう孫までも出さなければならない神聖な義務として倒置される。 そんな風に国民が次の犠牲と戦争を当然として受け入れ平和は遠ざかる。 これが戦争の時期、ヤスクニで実際起きたことだ。
 靖国神社に付属する歴史館である‘遊就館’を訪問してみれば、神社のこのような機能が戦後にも依然として生きていることが確認できる。 博物館には去る戦争は侵略ではない‘自衛戦争’だったとし、A級戦犯も犯罪者ではなく国難が迫った時に自身を犠牲にした‘昭和殉難者’だという事を強弁する展示物で埋め尽くされている。 神社の片隅には東京戦犯裁判でA級戦犯に関して無罪意見を出したインド人ラダ・ビノード・パール判事の記念碑も見ることができる。 去る戦争は仕方のないことだっただけでなく、誇らしいことであり、そのために博物館に実物模型で展示されているゼロ戦と回天(人間魚雷)に乗って自殺攻撃に敢行した先輩たちのように、私たちもその後に続かなければならないというのが神社の教えだ。 神風を称賛する過激な文面を見れば‘私たちが忘れないから、お前たちは勇敢に出て行き死になさい’と誰かの背中を強く押すような感じまでする。 そこには自身の誤った判断で自国民310万人を亡くならせ、隣国にはそれより更に大きな苦痛を抱かせた恥ずかしい過去に対する反省的省察はいくら探しても見当たらない。
 しかし、自分自身と他人の苦痛に対するこのような無感覚と破廉恥は、事実人類史で非常に普遍的に観察される現象だ。 そこで、ベトナム戦争時に起きた民間人虐殺を最後まで認めようとしない韓国人の心にも、イラクアフガニスタン戦争は必要な戦争だったと強弁する米国人の心にも、いつのまにかヤスクニは渦巻いているのかも知れない。 そのような意味で靖国問題というのは、容易には過去を克服できない日本人の問題であると同時に、人類が皆一緒に手を握って悩まなければならない良心と正義に関する根本的な問いでもある。 私たちがベトナムを否認して、龍山(ヨンサン)を忘れて、韓国戦争時期になされた良民虐殺を正当化する瞬間、私たち皆は巨大な安倍晋三になるだろう。

http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/16402.html

安倍晋三」にならないために、アジア太平洋戦争の日本の所業、朝鮮戦争ベトナム戦争での民間人虐殺、イラク戦争アフガニスタン戦争を引起したアメリカの誤った国策等、直視しにくいことに向き合うべきでしょう。