河野談話からアジア女性基金を経て現代まで

日韓間の慰安婦問題を考える上での構図の違い

慰安婦問題を認識する際に、もっとも単純化された構図は2種類あります。ひとつは「日本」対「韓国」という国家単位での対立構図で、否認論者やメディアの多くはこの構図でしか認識していません。もうひとつは「国家」対「被害者」という構図で、「国家」には日本政府だけでなく韓国政府も含まれ、人権団体などは基本的にこの構図で慰安婦問題を認識しています。

右翼・極右・ネトウヨ歴史修正主義者・嫌韓バカ、何でもいいのですが、彼らが「日本」対「韓国」の対立構図でしか問題認識していない限り、慰安婦問題を正しく捉えることは不可能でしょう。自称中立・自称リアリストらも同様の構図で捉えているため、彼らの考える“現実的”な対応策は、「臭いものに蓋」以上になりえません。
また、慰安婦問題が人権問題であり日本政府に責任があることを主張する論者に対して「反日」扱いする短絡した嫌韓バカの思考回路の残念さはここに起因します。同時にこの短絡した残念な思考回路では「「韓国軍のベトナムでの性暴力、謝罪を」元慰安婦ら会見」というニュースを理解できません。「日本」対「韓国」の対立構図しか彼らの脳内にないため、この情報をどう取り扱っていいかわからず、とにかく「韓国」をdisる材料にするのに手一杯になってしまいます。
「国家」対「被害者」という構図なら容易に解釈できるんですけどね。

以下この記事では、慰安婦問題をとりあえず日本と韓国に限定して考えることにします*1

慰安婦問題を理解する最初のステップは「国家」対「被害者」という構図を理解すること

とりあえずはこれに尽きます。
この構図で理解しておけば、「被害者」には日本軍慰安婦韓国軍慰安婦も含めて解釈できますし、「国家」には日本政府も韓国政府も含めて解釈できます。
実際問題として、韓国軍慰安婦という「被害者」は韓国政府という「国家」と対峙してきましたし、日本軍慰安婦という「被害者」は日本政府や韓国政府という「国家」に対峙してきました。ここで韓国政府を含めたのは誤記ではなく、そもそも韓国政府は日本軍慰安婦らを積極的に救済しようとはしてこなかったため、あえて記載しています。軍事政権時代はもちろんのこと、民主化以降も韓国側が政府として慰安婦問題の解決に積極的だったかというとかなり疑問符がつきます。韓国国内には反共勢力が強く存在し、彼らは日本やアメリカとの協力関係を望んでおり、慰安婦問題などで日韓関係を毀損したくない人たちです。しかし民主化以降に、植民地時代に宗主国日本に擦り寄って不当に利益を得たいわゆる親日派に対する市民レベルの糾弾が高まり、政府として全く対応しないわけにはいかなくなりました。民主化以降の韓国政府が消極的ながらも、特に選挙前になると、歴史問題に取り組んだのはそのためと言えます。しかしながら韓国政府が慰安婦問題に取り組むために、被害者団体の圧力が必要だった点で、韓国政府もまた日本軍慰安婦という「被害者」が対峙すべき相手のひとつでした。
「国家」対「被害者」という構図を理解していれば、上記の状況は容易に飲み込めると思います。

「被害者」も一枚岩ではない

「国家」対「被害者」という構図は基本ではありますが、2つの勢力の対立といったかなり単純化された構図であることは否めません。現実はさらに複雑で、「国家」や「被害者」もまた一枚岩でなく、さまざまな考え方を持つ集団が混在しています。もちろん、これはどんな問題でもありうることで慰安婦問題特有の話ではありません。問題について深く知ろうとすると、おおまかに見ていた時には一つに見えていた集団自体、さまざまな考えを持つ複数の小集団の集まりであることが見えてくるのはよくある話です。慰安婦問題の場合、重箱の隅をつついて揶揄することにしか興味のない衆愚が存在するため、細部ばかり強調され、かえって全体像が見えにくくされています。

「国家」対「被害者」という構図を解剖してみると、まず「国家」は日本政府と韓国政府に分かれ、日本政府*2もまた、対韓強硬派・協調派、人権問題に冷淡な勢力・敏感な勢力などに分かれ、それぞれは微妙に異なる対応を取ります。「被害者」(ここでは被害者を支援する人・団体を含みます)もまた一枚岩ではなく、色々な考え方が混在します。
一般的に「被害者」側はその被害を不当とみなす点で意識を共有していますが結束が強いように思われますが、現実的な解決策が見えてくると結束が揺るぎます。「国家」側が提示する提案に納得できない者と受容する者の間で亀裂が入ります。この提案が分断を誘発するような「国家」側の姑息な手段であることも少なくありません。いかなる提案も分断を誘発させうる要素は持ちますので、必ずしも否定されるわけではありませんが、「被害者」側の多くが受け入れなかったのであれば、それは提案としては失敗作としか評価できません。
慰安婦問題における「アジア女性基金」はその意味で“失敗作”と評価すべき提案だったと言えます。
アジア女性基金」は「被害者」側を分断し、問題を複雑にした挙句、結局のところ問題解決にも失敗したわけです。「被害者」側は韓国側支援団体と日本側支援団体を分断させました。元慰安婦らもまた分断されました。これを簡単に言うと、「アジア女性基金」を受け入れた集団と受け入れなかった集団に分かれた、と言えるでしょう。

4つの勢力という構図に再構成する

「国家」対「被害者」という構図を少し細分化して「日本政府」「韓国政府」「被害者A:アジア女性基金を受け入れた」「被害者B:アジア女性基金を拒否した」とすると、少し話しがわかりやすくなります。

例えば、「韓国政府」側の主張として以下のような見方があります。

■日本側の試み:アジア女性基金
1998年1月6日、ハンギョレ新聞に全面広告が載った。日本政府と民間が設立した財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)が、韓国の慰安婦被害者に1人当たり200万円の見舞金と、300万円程度の医療福祉を提供するという内容だった。日本の首相の謝罪と反省が含まれた書簡も届けるとされていたが、書簡の内容は「道義的責任」という但し書きがついており、原資は日本政府の予算ではなく、国民の募金でつくられた「民間基金」という形を取った。1965年の日韓請求権協定により、慰安婦問題は解決されたという日本政府の法的立場を維持しながら、あくまで道義的なレベルで人道支援を提供するという発想だった。
(略)
しかし残念ながら、これらの善意は韓国で受け入れられなかった。被害者と「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は、「基金」が慰安婦問題の法的責任と補償義務を回避しようとする日本政府の浅はかな策略だと非難し、拒否の意思を明らかにし、韓国政府も同じ立場を取った。韓国の被害者のうち、一部が「基金」の金銭的支援を受けたが、全体的に見て「基金」の事業が素直に受け入れられなかったことは間違いない。いくら善意でも、相手が快く受け入れないことを無理に押し切れば、それは独善になってしまう。

http://www.huffingtonpost.jp/seiyoung-cho/japan-comfort-women_b_4909640.html

アジア女性基金」を評価する考えがわかります。
「被害者A」にあたる「アジア女性基金」自体の意見は以下のようになります。

 韓国政府はアジア女性基金の設立に対しては、当初積極的な評価を下しましたが、やがて否定的な評価に変わりました。被害者を支援するNGOである韓国挺身隊問題対策協議会(略称:「挺対協」)が強力な反対運動を展開し、マスコミも批判すると、政府の態度も影響を受けました。基金に対する元「慰安婦」の方々の態度は、さまざまです。アジア女性基金を批判し拒否する考えの方々もいますが、不満はもつものの、受けとるという態度の方々もいました。受けとるという考えを公然と表明したため、批判や圧力を受けた方もおり、その中にはやむをえずアジア女性基金拒否を再声明した人も出ました。
 挺対協は、国連人権委員会等への訴えや各国の関係団体との連帯行動などを積極的に続けており、その活動は「慰安婦」問題が国際社会の問題となるのに影響を及ぼしたと言ってよいでしょう。挺対協は、日本政府が法的責任を認めて謝罪し、補償するとともに、責任者を処罰することを求めることに運動の重点を置きました。

http://www.awf.or.jp/3/korea.html

こう見てくると「被害者B」にあたるのが挺対協であることがわかります。
4つの勢力という構図はつまり、「日本政府」「韓国政府」「被害者A:アジア女性基金的」「被害者B:挺対協的」という4つになります。もちろん、これに限定されない立場もあります。そもそも史実的には「被害者A」と「被害者B」を分類する必要がありません*3。あくまで慰安婦問題に取り組んできた現代における便宜的な分類です。以降、「日本政府」「韓国政府」「アジア女性基金」「挺対協」と表記します。

河野談話からアジア女性基金を経て現代まで

1993年の河野談話まで「被害者」を支援する世論に押された「韓国政府」は「日本政府」と交渉し、「日本政府」は民間が勝手にやったと言い逃れを続けてきました。しかし、政府関与の事実が明らかになり、河野談話に至ります。河野談話は「被害者」や「韓国政府」に証拠を突きつけられた結果、「日本政府」が渋々認めた最低限の内容に過ぎませんが、「日本政府」内の極右勢力にとってはこれ以上ない屈辱的な“譲歩”でした。非自民政権成立と前後して、この極右勢力が強烈な巻き返しを図ります。
「日本政府」は河野談話以降、慰安婦問題解決の具体策を模索しますが、これが進展しなくなります。自民党と連立した村山内閣まではまだ河野談話に誠実であろうと努力しましたが村山談話(1995年)までが限界で、以降は急速に後退していきます。
河野談話以前「被害者」を無視していた「日本政府」は、1993年から1995年にかけてかろうじて「被害者」救済のために「韓国政府」と協力する姿勢を示していました。自民党社会党を潰した1996年以降の「日本政府」は急速に「被害者」を突き放し侮辱する立場に転じていきます。
もっとも、その徴候は村山内閣時代に既に現れていました。
1994年8月には桜井新自民党環境庁長官が「日本は侵略戦争をしようと思って戦ったのではない」と発言し辞任。1995年11月には江藤隆美自民党総務庁長官が「植民地時代に日本は悪いこともしたが良いこともした」と発言して辞任しています。こういった歴史修正主義発言が「被害者」側を刺激しないはずもありませんでした。
しかしこの時点で「アジア女性基金」での慰安婦問題解決方針ができていました。法的責任や日本軍の主体性を曖昧にした河野談話アジア女性基金という解決案は、微妙なバランスの上にしか成り立たない、「金を出してやるから黙れ」という態度が表面に出れば水泡に帰す性質を持っていました。
桜井や江藤のような発言*4は、そのバランスをぶち壊したわけです。しかし、これ以上を要求しても現状の「日本政府」では難しいと考える「被害者」は「アジア女性基金」での解決を選び、それに納得できない「被害者」は「挺対協」の道を選びました。ここにおいて「被害者」は「アジア女性基金」と「挺対協」に分断されたのです。
アジア女性基金」で解決させようとしていた「韓国政府」は「挺対協」を教条主義と捉えつつも、「1997年の安倍晋三」に見られるような日本側で河野談話そのものを否定する動きから「アジア女性基金」と距離をとり、慰安婦問題からも離れようとしていきます。
2000年前後、慰安婦問題における主要なプレイヤーは「日本政府」「アジア女性基金」「挺対協」の三者となり「韓国政府」は距離をとるようになります。この頃からネット上でも歴史修正主義が蔓延し、慰安婦問題を捏造扱いする論調が増えていきます。こういった民衆レベルでの民族差別を助長したのは慰安婦問題で冷淡な態度を取り続けた「日本政府」でした。「日本政府」は対外的には河野談話アジア女性基金慰安婦問題は解決したと主張し、国内的には慰安婦問題は捏造だと示唆して民族差別を助長させました。
元々反共で協力関係にあった「日本政府」と「韓国政府」でしたが、慰安婦問題が修復しがたい亀裂を生んだとも言えます。
このボタンの掛け違えは、1997年頃に「日本政府」が対外的には河野談話アジア女性基金で解決したと主張しつつ、国内的には慰安婦問題において日本に責任はないと宣伝したことから始まっています。それを主導した一人が1997年の安倍晋三だったわけです。

慰安婦問題を国内外で二枚舌の説明をした「日本政府」は「韓国政府」との間に亀裂を作りましたが、2000年代前半は「韓国政府」の消極さもあってそれほど表面化せずに済みました。「挺対協」は「日本政府」を非難しましたが「韓国政府」は「挺対協」と距離を置き同調を避けてきましたし、日本ではリベラル勢力の衰退に伴い「アジア女性基金」が「日本政府」に対して微力に過ぎました。
しかし2000年代後半に入ると「日本政府」が変質します。小泉劇場に代表される衆愚政治が展開され、領土問題が表面化します。人権問題に消極的だった「韓国政府」も領土問題が表面化すると「日本政府」との対立を辞さないようになります。第一次安倍政権になり、慰安婦問題における河野談話アジア女性基金の否定姿勢が明らかになると、「挺対協」が強く反発し、領土問題などで悪化した対日世論に押された「韓国政府」が慰安婦問題でも前面に出てくるようになります。
第一次安倍政権の慰安婦問題否認工作は、2007年にアメリカから非難されたことで潰えました。「日本政府」はその後政権交代もあり、慰安婦問題における国内外で二枚舌を弄する詭弁を訂正する機会を得ましたが、ついにそれを生かすことはできませんでした。リベラル勢力が著しく退潮しており、政権交代した民主党自身が内部に多くの歴史修正主義者を抱えている状況では、それも不可能だったと言えるでしょう。日本人は慰安婦問題で二枚舌を弄することを選んだのです。
対する「韓国政府」は2011年に憲法裁判所から慰安婦問題に取り組むよう命じられ、民主政権の「日本政府」と交渉しますが、二枚舌を選択した日本とは交渉できませんでした。そのまま、第二次安倍政権へと退歩した「日本政府」と交渉することが出来なくなります。「日本政府」は今さら二枚舌を引っ込めることもできなくなっています。

まとめ

1990年代、韓国政府は河野談話アジア女性基金という形式で日本政府と解決を図るつもりでした。河野談話からアジア女性基金に至る1993年から1997年の間に、少なくとも慰安婦否認論や植民地正当化を国内的に抑え人権問題という認識を日本側(政府・国民)が持つことが出来ていれば、慰安婦問題はこの時沈静化したかも知れません。しかし、1993年から1997年に日本で吹き荒れたのは歴史修正主義の嵐でした。強制性を否定する慰安婦問題否認論や植民地化の正当化、侵略戦争の正当化、南京事件の否定まで、国家ぐるみで歴史の改ざんを図った時代であり、それを国内外で使い分ける二枚舌で隠した時代でした。直接的な当事者である韓国からは、日本の二枚舌はよく見えたため、市民レベルでは日本に対する反感が強まりましたが、1990年代当時は韓国政府がそれを抑え込みました。
2000年代後半になって、韓国政府は抑えきれなくなり、日本政府と対峙し始めます。日本政府は二枚舌で乗り切ろうとしましたが、2007年にはアメリカから非難され一時的におとなしくなりました。しかし、それは反省したのではなく、責任を相手に転嫁し逆恨みを溜め込んだだけでした。アジア外交の建て直しをはかろうとした民主政権時に排外主義が政権奪回のための武器として利用され、自民党が政権奪回した後、再び二枚舌を使おうとしましたが、その時には取り返しのつかない亀裂が生じていました。安倍政権は最早二枚舌を引っ込めることが出来なくなっています。日本人は今その二枚舌を「毅然とした態度」と支持しています。

*1:日韓以外の国とも慰安婦問題がありますが、説明が煩雑・冗長になるのを避けるためです。考え方そのものは韓国以外の場合にも援用できるはずです。

*2:ここでは国会も含めて政府と呼ぶことにします。

*3:被害事実が発生した時点においては、双方ともに被害者であるからです。

*4:右翼メディアや右翼言論人も同様の対応を取っていました