水俣病の「空白の8年」

【3】幕引き「空白の8年」に陥る

 「これで水俣の海はきれいになる」。誰もがチッソのその言葉を信じた。
 水俣病の原因に排水を疑われたチッソ水俣工場は、一九五九年十二月、「サイクレーター」を工場内に設置した。汚水から水銀を除去する浄化装置、との触れ込みだった。完成時には、チッソの社長自らがこの装置を通したという水を飲むパフォーマンスまで演じる。実は、装置にそんな機能は全くなかった。
 一気に幕引きを図るかのように、サイクレーターを設置した同じ十二月、チッソ熊本県の漁連と補償協定を、患者団体とは「見舞金契約」と相次いで交わした。
 サイクレーターは言うに及ばず、「見舞金契約」も、後に熊本地裁判決が「公序良俗に反する」と断罪するほど、被害者の不満をかわすためだけの内容。抜本救済策と言えるものではなかった。
 だが、報道上、水俣病は「終息」する。暮れの新聞各紙には「円満解決」「報われた患者の努力」の文字が躍っていた。

 とび職人だった宮本巧さん(77)=水俣市=が仕事で初めて水俣を訪れたのは、この年の九月。滞在中に妻と出会い、結婚した。「水俣の魚は危ない」とは聞いていたが、サイクレーターの話に安堵を覚えた。
 仕事を終えると、水俣工場の排水口近くにある妻の実家で漁を手伝った。水俣市漁協は、五七年から続けた漁獲自主規制を六四年までに全面解除。「しばらく魚を取ってなかったから、入れ食いやった。飯粒でも釣れた」。タチウオ、カサゴ、キス。水俣病が大きく報じられることもない。毎日、魚を食べた。
 六五年二月、西日本新聞水俣支局に松浦正高さん(75)=福岡県宗像市=が着任した。あいさつ回りで、市の担当者から言われた。「水俣病は終わった。もう触らんでほしい」。「被害者は差別を恐れ、取材に応じない」とも忠告された。
 六月になって、「新潟で第二の水俣病」と報じられた。「水俣病」の言葉に、水俣市民の多くは「水俣病はもう終わっている」と反発した。
 そんな市民のムードもあったのか。「新潟を機に、水俣病取材を再開することもなかった」と、松浦さんは振り返る。
水俣病が本当に終わったとは思わなかったが、被害者も地域住民も触らないでほしいという問題をわざわざほじくり返す気にならなかった。他社の記者も同じだった」

 宮本さんの体に異変が起きたのは、松浦さんが水俣支局に着任したころだ。手足がしびれ、やがて引きつるようになる。「腕自慢」だったとびを辞め、職を転々とした。
 沈黙していた水俣病報道は、六八年に突如再燃する。五月、チッソ有機水銀を発生させたプラントの稼動を終了した。それを待っていたかのように、政府は九月、水俣病を公害認定。被害者たちの方が沈黙を破り、名と姿をさらして裁判に立ち上がった。
 「まだ魚を食べたら危ないって誰かが言ってくれれば・・・」。もっと早くに排水が止まっていれば、危険性がもっと叫ばれ続けていれば、あるいは有機水銀に侵されなかったかもしれない。時に、一晩中手足の引きつりに見舞われるいま、宮本さんから放たれたのは「行政にやられた。でも、その行政にだまされたマスコミもつまらん」の言葉だった。
 マスコミが陥った「空白の八年」。被害者は顧みられずに無援の中で孤立し、有毒廃水は誰にとがめられることもなく流され続けてしまった。

http://www.sic.shibaura-it.ac.jp/~kurikuri/minamata/minamata08.pdf

1959年から1968年まで水俣病報道が沈黙したことは、おそらく被害者差別を抑える上では効果があったのでしょう。結果を知っている現在の我々から見れば、報道すべきだったと容易に言えますが、1960年時点でその判断ができたかというと難しいといわざるを得ません。確たる根拠のない中で、被害者差別を重視して危険性の訴えを控えるべきか、被害者差別のリスクをとってでも危険性を重視して訴えるべきか、容易に判断できることではないと思います。