金学順(キムハクスン)/김학순氏の名乗り出証言(1991年8月14日)前後

慰安婦である金学順氏の証言が日本に最初に紹介されたのは、1991年8月11日の朝日植村記事によってです。
朝日植村記事(1991年8月11日)が書かれた時点では一般に金学順氏は名乗り出ておらず、記事を書いた植村氏も匿名の証言テープだけを聞いて記事にしています。
その記事がこれです。

朝日植村記事(1991年8月11日)

 女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた。二、三百人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。五人の朝鮮人女性がおり、一人に一室が与えられた。女性は「春子」(仮名)と日本名を付けられた。一番年上の女性が日本語を話し、将校の相手をしていた。残りの四人が一般の兵士二、三百人を受け持ち、毎日三、四人の相手をさせられたという。
 「監禁されて、逃げ出したいという思いしかなかった。相手が来ないように思い続けた」という。また週に一回は軍医の検診があった。数カ月働かされたが、逃げることができ、戦後になってソウルへ戻った。結婚したが夫や子供も亡くなり、現在は生活保護を受けながら、暮らしている。
 女性は「何とか忘れて過ごしたいが忘れられない。あの時のことを考えると腹が立って涙が止まらない」と訴えている。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20150121/1421776753

見てのとおり、だまされて日本軍相手の売春強要を受けていた事例として紹介されています*1
この記事掲載の3日後、1991年8月14日に金学順氏が実名で名乗り出ました。

翌1991年8月15日の韓国紙では次のように報道されています。

東亜日報 「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」
中央日報 「私は挺身隊だった」
韓国日報 「挺身隊の生き証人として堂々と」

1990年11月に結成された韓国挺身隊問題対策協議会の名称からもわかるとおり、そもそも韓国では慰安婦のことを「挺身隊」と呼んでいました。1991年8月11日の朝日植村記事で「慰安婦」と「挺身隊」が混同されてたか否かに一切関係なく、韓国では「慰安婦」=「挺身隊」という認識だったわけです。
ちなみに日本国内でも1987年の読売記事からわかるように「慰安婦」と「挺身隊」の混同は一般的でした。

1987年8月14日
従軍慰安婦とは、旧日本軍が日中戦争と太平洋戦争下の戦場に設置した「陸軍娯楽所」で働いた女性のこと。昭和13年から終戦の日までに、従事した女性は20万人とも30万人とも言われている。「お国のためだ」と何をするかもわからないままにだまされ、半ば強制的に動員されたおとめらも多かった。特に昭和17年以降「女子挺身隊」の名のもとに、日韓併合で無理やり日本人扱いをされていた朝鮮半島の娘たちが、多数強制的に徴発されて戦場に送り込まれた。彼女たちは、砲弾の飛び交う戦場の仮設小屋やざんごうの中で、一日に何十人もの将兵に体をまかせた。その存在は、世界の戦史上、極めて異例とされながら、その制度と実態が明らかにされることはなかった。

http://wam-peace.org/sp/yomiuri/p01.html

さらにさかのぼれば、従軍慰安婦研究の古典的な存在である1973年の千田夏光氏「従軍慰安婦」でも韓国では「慰安婦」を「挺身隊」と呼ぶことが紹介されており1991年時点で「慰安婦」と「挺身隊」の混同があっても責められるような誤りとは言えません。

【コラム 江川紹子慰安婦と捏造

2015年01月14日 08:12 JST
 植村氏は、1(註:「挺身隊」と「慰安婦」の混同のこと)に関しては、当時韓国では、慰安婦のことを「挺身隊」と呼んでいたため、自分も誤用したと言う。確かに、慰安婦問題に対応するために作られた韓国のNGOは、今も「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺隊協)と名乗っている。植村氏が、記事を書く前に日本側の現代史や軍に詳しい専門家に確認しなかったのが、間違いの原因だろう。

http://www.sakurafinancialnews.com/news/9999/20150114_5

江川紹子氏は植村氏を支持するコラムで上記のように「記事を書く前に日本側の現代史や軍に詳しい専門家に確認しなかったのが、間違いの原因」と言っていますが、言うほど簡単ではなかったはずです。日本国内でも1973年には「挺身隊」と「慰安婦」の混同があり、1990年頃に慰安婦関連の書籍を多く出した海軍省航空本部に勤務した経験がある山田盟子氏でさえ同じ混同をしていましたから、容易に明確な回答をできる専門家が当時いたかどうかも怪しいと思います。

さて、韓国では1991年8月15日大きく報道されましたが、日本国内ではほとんど注目されませんでした。1991年8月15日に報じたのは朝日新聞北海道新聞くらいと思われます。それも朝日新聞は、金学順氏の会見(1991年8月14日)の場に立ち会えなかった植村氏が夕刊にささやかな記事を書いたくらいです。

朝日新聞大阪版(1991年8月15日夕刊)
 韓国の『韓国挺身隊問題対策協議会』(尹貞玉・共同代表)が聞き取り調査をしている元従軍慰安婦(女子挺身隊)の女性が十四日午後、ソウル市内で、実名を出して証言した。同夜のテレビニュースで流され、十五日朝の韓国の新聞各紙に大きく報道されるなど反響が広がっている。

北海道新聞の方は8月15日朝刊で金学順氏に対する単独インタビュー記事を載せるなどかなり大きく報じています。

他の日本国内メディアが報じたきっかけは尹貞玉氏の来日

1991年8月14日に金学順氏が名乗り出た後に来日した尹貞玉氏に読売新聞が取材し記事を書いています。

読売新聞大阪版(1991年8月24日)
連行された約二十万人の女子挺身隊のうち「慰安婦」として戦地に送られたのは八万人から十万人とみられているが、公式資料がないので正確にはわからない(中略)。ソウルの金学順さんもそんな一人。

毎日新聞が金学順氏の件を報じたのは1991年9月28日です。

提訴前の聞き取り(1991年11月25日)

名乗り出から約4ヵ月後、金学順氏は他の2人の慰安婦(匿名)およびその他の元軍人・軍属らと共に日本政府を提訴しました。1991年12月6日のことで、この裁判は「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」として知られます。
提訴にあたって弁護団は金学順氏に対する聞き取り調査を行なっています。それが1991年11月25日のことで、これに植村氏が同行して聞き取り内容が記事となって一ヵ月後の1991年12月25日に掲載されました。

1991年12月25日朝刊
 韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」の元朝鮮人従軍慰安婦、元軍人・軍属やその遺族35人が今月6日、日本政府を相手に、戦後補償を求める裁判を東京地裁に起した。慰安婦だった原告は3人。うち2人は匿名だが、金学順(キム・ハクスン)さん(67)=ソウル在住=だけは実名を出し、来日した。元慰安婦が裁判を起したのは初めてのことだ。裁判の準備のため、弁護団と「日本の戦後責任をハッキリさせる会」(ハッキリ会)は4度にわたり韓国を訪問した。弁護士らの元慰安婦からの聞き取り調査に同行し、金さんから詳しい話を聞いた。恨の半生を語るその証言テープを再現する。(社会部・植村隆
 ○17歳の春
 「私は満州(現中国東北部)の吉林省の田舎で生まれました。父が、独立軍の仕事を助ける民間人だったので満州にいたのです。私が生後100日位の時、父が死に、その後、母と私は平壌へ行きました。貧しくて学校は、普通学校(小学校)4年で、やめました。その後は子守をしたりして暮らしていました」
 「『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。17歳(数え)の春(1939年)でした」
 「平壌駅から軍人達と一緒の列車に乗せられ、3日間。北京を経て、小さな集落に連れて行かれました。怖かったけれど、我慢しました。真っ暗い夜でした。私と、友人は将校のような人に、中国人が使っていた空き家の暗い部屋に閉じ込められたのです。鍵をかけられてしまいました。しまったと思いました」
 「翌朝、馬の声に気づきました。隣には3人の朝鮮人の女性がいました。その人たちから『おまえたちは、本当にばかなことをした。こんなところに来て』と言われました。逃げなければならないと思ったのですが、周りは軍人でいっぱいでした。友人と別にされ、将校に『言う通りにしろ』と言われました」
 「将校は私を暗い部屋に連れて行って、『服を脱げ』と言いました。恐ろしくて、従うしかありませんでした。そのときのことはしゃべることさえ出来ません。夜明け前、目が覚めると将校が横で寝ていました。殺したかった。でも、出来ませんでした。私が連れて行かれた所は、『北支(中国北部)カッカ県テッペキチン』というところだということが後で分かりました」
 ○赤塀の家
 「この慰安所は赤い塀の家でした。近くには民間人はいません。軍と私たちだけでした。5人の女性がおりました。22歳で最年長のシズエは将校だけを相手にしていました。サダコ、ミヤコ、それに友人のエミコ。私はアイコと呼ばれていました。近くの部隊は300人くらいでした。その部隊について、移動するのです」
 「軍人たちは、サックをもってきました。朝8時を過ぎたら、やって来て、夜は将校が泊まることもありました。休む暇はありません。長い人でも30分以内でした。でないと外から声がするのです。多いときは20人以上相手することもありました。しかし、戦闘の時は、静かでした。『ダ、ダ、ダ』という銃撃の音が聞こえるときもありました。お金などはもらったこともありません」
 「食べ物は軍人たちがもって来ました。米やミソ、おかずなど。台所があり、自分たちで作って食べました」
 「テッペキチンには1カ月半いて、また別のところに移動しましたが、名前は覚えていません。そうこうするうちに、肺病になりました」
 「ずっと逃げたいと思っていました。そんなある夜、私の部屋に、男の人が忍びこんできました。びっくりしましたが、その人は『私も朝鮮人で寝るところがなくて来た』と言いました。両替商をしているという、その人に助けてくれるように頼み、一緒に逃げました。他の人まで連れて行くような余裕はありませんでした。その年の秋のことでした」
 ○解放の後
 「南京、蘇州などを経て、上海へ行き、その人と夫婦になりました。質屋をやり、娘と息子が生まれました。1946年の夏に、船で仁川へ戻り、ソウルの難民収容所に入りました。そこで娘が死にました。そのあと、ソウルで部屋を借り、私はノリ売りの商売を始め、夫は掃除夫になりました」
 「夫は酒を飲むと、『お前が慰安所にいたのを助けてやったではないか』と言って、私を苦しめました。その夫も、朝鮮戦争の動乱の中で死に、息子を育てながら行商しながら生活していました。しかし、その息子も小学校4年の時に水死しました」
 「生きていこうという気持ちもなくなりました。死ぬことしか考えませんでした。全羅道慶尚道、済州道など全国を転々としました。酒やたばこをやり、人生を放棄したような生活を続けていました。10年ぐらい前に、これじゃだめだと思い始めました。ソウルに来ました。家政婦をやったお金で、小さな部屋を借りています。私の不幸は慰安所に足を踏み入れてから、始まったのです。この恨みをどこにぶつけようか。だれにも言えず苦しんでいました。今は月に米10キロと3万ウオン(約5200円)の生活保護を貰っています」
 ○募る怒り
 「いくらお金をもらっても、捨てられてしまったこのからだ、取り返しがつきません。日本政府は歴史的な事実を認めて、謝罪すべきです。若い人がこの問題をわかるようにして欲しい。たくさんの犠牲者がでています。碑を建ててもらいたい。二度とこんなことは繰り返して欲しくない」
 「日本政府がウソを言うのがゆるせない。生き証人がここで証言しているじゃないですか」
 ◇
 これまで韓国に戻った慰安婦たちは、沈黙を続けていた。ところが、昨年6月、日本政府は強制連行に関する国会で「従軍慰安婦は民間業者が連れ歩いた」など軍や政府の関与を否定する答弁をし、その後も「資料がない」などと繰り返してきた。こうしたニュースを聞いた金学順さんは、「自分が生き証人だ」と今年夏に、はじめて名乗りでた。原告3人の外にも最近、体験を公表する女性が出てきた。
 一方、ハッキリ会(註:連絡先)も慰安婦に関する情報を集めるなど調査を続けている。

http://kyoakubokumetsu.web.fc2.com/ianfu-7-t.html

この朝日植村記事(1991年12月25日)に対する誹謗中傷もありますが、内容としては名乗り出前の1991年8月11日の記事と同じく、だまされて日本軍相手の売春強要を受けていた事例、で一貫しています。
1991年8月11日と1991年12月25日の2つの朝日植村記事を見る限り、そして「強制連行」を直接暴力を用いた連行に限定する限り、「日本軍に強制連行され、慰安婦にさせられた女性」という印象を抱きようがないと言えるでしょう。

提訴(1991年12月6日)

慰安婦」訴訟の経緯

 1991年を皮切りに、アジア女性基金が償い事業を行った韓国、フィリピン、台湾の元慰安婦が原告となった訴訟が次々と始まりました。いずれも東京高裁、最高裁へと進みましたが、最終的に補償の請求は退けられました。

アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟 1991年提訴

  訴状 1991年12月6日
  高裁判決 2003年7月22日
  最高裁判決 2004年11月29日

訴状 1991年12月6日

35 原告金学順(キム・ハクスン。軍隊慰安婦)

 原告金学順(以下、「金学順」という。)は、一九二三年中国東北地方の吉林省で生まれたが、同人誕生後、父がまもなく死亡したため、母と共に親戚のいる平壌へ戻り、普通学校にも四年生まで通った。母は家政婦などをしていたが、家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め、子守りや手伝いなどをしていた。金泰元という人の養女となり、一四歳からキーセン学校に三年間通ったが、一九三九年、一七歳(数え)の春、「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、金学順の同僚で一歳年上の女性(エミ子といった)と共に養父に連れられて中国へ渡った。トラックに乗って平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日閥乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎭」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎭」へは夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。翌日の朝、馬の噺きが聞こえた。隣の部屋にも三人の朝鮮人女性がいた。話をすると、「何とバカなことをしたか」といわれ、何とか逃げなければと思ったが、まわりは軍人で一杯のようだつた。 その日の朝のうちに将校が来た。一緒に来たエミ子と別にされ、「心配するな、いうとおりにせよ」といわれ、そして、「服を脱げ」と命令された。暴力を振るわれ従うしかなかったが、思い出すのがとても辛い。
 翌日から毎日軍人、少ないときで一〇人、多いときは三〇人くらいの相手をさせられた。朝の八時から三〇分おきに兵隊がきた。サックは自分でもってきた。夜は将校の相手をさせられた。兵隊は酒を朝から飲み、歌をうたう者もいた。「討伐」のため出陣する前日の兵隊は興奮しており、特に乱暴だった。朝鮮人とののしられ、殴られたりしたこともあった。これらの軍人たちは犬と同じで、とても入間とは思えなかった。部屋の中では、中国人の残した中国服や日本軍の古着の軍服を着させられた。週ないし月に一回位、軍医がきて検診を受けた。同原告は肺病にかかったため、薬をいろいろもらった。六〇六号という抗生物質の注射も打たれた。
 金学順はそこでは、「アイ子」という名前をつけられた。他の四人の朝鮮人女性は、一緒に来た「エミ子」の他、最も年長の「シズエ」(二二歳)と「ミヤ子」(一九歳)「サダ子」(同)という名前だった。シズエは、別室で特に将校用として一室をあてがわれたが、他の四人は一部屋をアンペラのカーテンで四つに区切ったところに入っていた。食事は、軍から米・味噌などをもらって五人で自炊した。
 この鉄壁鎭にいた日本軍部隊は約三〇〇人位の中隊規模で、「北支」を転戦していた。鉄壁鎭には一か月半位いたが、何度か移動した。金学順ら女性たちも一緒に移動させられた。行く先々の中国人の村には、中国人が一人もいなかった。いつも空屋となった中国人の家を慰安所と定められた。
 ある日、兵隊が二人の中国入を連れてきて、みんなの前で目隠しをして後手に縛り、日本刀で首を切り落とすところを見せた。密偵だと言っていたが、おまえたちも言うことをきかないとこうなるとの見せしめだった。
 金学順は毎日の辛さのため逃げようと思ったが、いつも周りに日本軍の兵隊があり、民間人と接触することも少なく、中国での地理もわからず、もちろん言葉も出来ないため、逃亡することはできなかった。ところが、その年の秋になったある夜、兵隊が戦争に行って少ないとき、一人の朝鮮人男性が部屋に忍び込んできて、自分も朝鮮人だというので、逃がしてほしいと頼み、夜中にそうっと脱出することができた。その朝鮮人男性は趙元讃と言い、銀銭の売買を仕事としていた。金学順はこの趙について南京、蘇州そして上海へ逃げた。上海で二人は夫婦となり、フランス租界の中で中国人相手の質屋をしながら身を隠し、解放のときまで生活をした。一九四二年には娘、四五年には息子が生まれた。四六年夏になり、中国から同胞の光復軍と最後の船で韓国に帰った。
 しかし仁川の避難民収容所で娘が死に、一九五三年の朝鮮動乱の中で夫も死に、金学順は行商をしながら息子を育てていたが、その息子も国民学校四年生のとき、水死した。唯一の希望がなくなり一緒に死にたいと思ったが死にきれず、韓国中を転々としながら酒・タバコものむような生活を送ったが、一〇年前頃から、これではいけないと思いソウルで家政婦をしてきたが、今は年老いたので、政府から生活保護を受けてやっと生活をしている状態である。
 身寄りがない金学順にとって、人生の不幸は、軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。金をいくらくれても取り返しのつくことではない。日本政府は悪いことを悪いと認め、謝るべきである。そして事実を明らかにし、韓国と日本の若者にも伝え、二度と繰り返さないことを望みたい。

http://www.awf.or.jp/pdf/195-k1.pdf
http://www.awf.or.jp/4/lawsuit.html

1991年12月25日の朝日植村記事と同じく、1991年11月25日の聞き取りからおこされた証言が上記です。
大筋は朝日植村記事と同じと言えるでしょう。まあ、これにも言いがかりをつけている人はいますが、別記事に譲ります。


*1:読売新聞の記者はこれを読んで「「日本軍に強制連行され、慰安婦にさせられた女性」という印象」を抱くようですが、多分その読売記者は日本語が不自由なのでしょう。読売新聞の社としてのレベルの低さを物語っています。