日本軍占領下においてのみ存在できた記念碑をプロパガンダに利用する産経

産経新聞による歴史修正主義プロパガンダ記事の件です。

厦門の占領地で復興に尽力した堀内大佐 中国人から転勤延期の嘆願書も

 福建省厦門を海軍第5艦隊の作戦部隊が占領したのは南京事件から約5カ月後の13年5月のことだった。14年11月から島(とう)嶼(しょ)部、禾山地区の海軍陸戦隊司令(部隊長)を務めた大佐(当時は少佐)、堀内豊秋は住民と交流を深め、荒廃した地域を復興させた。公正な裁判を実施し、治安を回復させ住民の信望を集めた。
 15年5月、堀内交代の報が伝わると、住民は転任延期を求める嘆願書を現地最高司令官の少将、牧田覚三郎に提出した。
(略)
 黄季通ほか103人の連名、押印の中華民国29(昭和15)年5月1日付嘆願書にはこう書かれていた。

http://www.sankei.com/politics/news/150216/plt1502160006-n2.html

産経的には、日中戦争で日本軍がいかに占領地で善政を布いたか、を宣伝したいのでしょうが、1939年5月から1940年5月まで駐屯した陸戦隊司令官に対する「転任延期を求める嘆願書」だけでそれが言えるでしょうか。
特に歴史修正主義者に言えることですが、虐殺や強姦、強制売春などの戦争犯罪行為について否定できない場合は、実行犯個人の責任にして日本軍の責任を問わないくせに「転任延期を求める嘆願書」などの場合には、転任延期を求められた軍人個人の功績とはせず、日本軍全体に適用するかのような主張をするのは不誠実と言う他ありませんね。
それはさておき。

元々厦門は抗日の拠点のような場所です*1。1937年の開戦以後、日本軍が何度か厦門に砲撃を加えており1938年5月に海軍陸戦隊が上陸占領し、敵性住民を虐殺しています*2。作戦は陸戦隊だけでは加賀の航空隊も参加し、厦門大学などを爆撃しています。
堀内豊秋が着任したのは占領が一段落ついてからと言えるでしょうから、住民からすれば相対的にマシな司令官だったかも知れません。

また、嘆願書の時期が1940年5月というのも気になる点です。
この直前の1940年3月には、汪精衛による傀儡南京国民政府が成立しています。本来なら厦門汪政権の管轄下になるはずでしょうが、1943年まで日本軍の直接管理下に置かれ続けます。1939年7月に成立した厦門特別市は、厦門島の他、コロンス島(鼓浪嶋)、金門島、除b嶋などを含み、日本海軍占領下で台湾総督府の管轄となり、1943年に汪政権の管轄に移ります。しかし、実際には興亜院厦門連絡部が支配的な地位にありました*3。外国租界があったコロンス島を含み、台湾との貿易拠点であり、南洋華僑の影響の強い厦門を日本は直接支配から外すつもりは無かったと言えます。
汪工作により、中国占領地に日本の傀儡政権をたてるにあたっても、厦門を手放すつもりはなかったわけで、そのタイミングで出された嘆願書は、その背景と意図を疑わざるを得ないところではあります。
1940年当時、海軍陸戦隊司令官が堀内であった時、廈門方面特別根拠地隊司令官であったのは牧田覚三郎ですが*4、上記の通り実際に厦門に強い影響を持っていた興亜院厦門連絡部の長官は水戸春造*5です。水戸は牧田と同じ海軍少将ですが、海軍兵学校での2期先輩です。
興亜院は思想関係の工作なども行なっており、市政府要人やコロンス島の租界工部局警視総監に日本人に充当せよなどの要求を出しています。陸戦隊とは命令系統が異なっていたようで、あるいは興亜院系と特別根拠地隊系で対立があったのかも知れませんし、行政に介入してくる興亜院より警備だけの陸戦隊の方に住民が好意を持ったのかも知れません。

さらに言えば、厦門のある福建省一帯はそれまで強力な軍閥が支配した経験が少なく、小規模な匪賊や軍閥、民軍による村単位での争いが絶えない地域であったことも重要でしょう。耕地面積の少ない福建省では械闘と呼ばれる村や宗族同士の争いが頻繁に起こり、省外から軍閥が進駐した場合は、村や宗族に土着した匪賊、民軍が軍閥に所属する旅団などに改編されるなどしていました(同安の葉定国、長泰の葉文龍など)。これは逆に見れば、村同士、宗族同士の対立に外部からの軍事力が利用されたとも言える状況となります。
ライバル宗族との対抗上、強力な外来勢力と結びつき、その力を利用してライバルを倒すという考えです。厦門に進駐した日本軍を利用しようとした宗族にとって、その司令官が転任されては困るのは当然です。

このような事情を考慮すると、「転任延期を求める嘆願書」一つで自慰史観に浸るのはあまりにも短絡的です。

ところで、産経記事では「嘆願書」の他に住民が記念碑を建てたことを、善政の証であるかのように述べています。

 堀内が15年10月に去るに当たり、住民108人は寄付を募り「去思碑」という記念碑を建立し、堀内の徳をたたえた。しかし、戦後、中国共産党によって碑は破壊され、残存していない。三村は「占領した地域を復興させ、治安を回復させ、中国の住民から感謝された堀内大佐の遺勲を忘れず、語り継いでほしい」と話している。

http://www.sankei.com/politics/news/150216/plt1502160006-n2.html

しかし、日本軍占領下で建てられた記念碑である以上、感謝や称徳だけで建てられたと考えるのは幼稚というほかなく、当然に政治的思惑があったと考えるべきでしょうね。
1920年代後半に呉佩孚に反抗し、“匪賊”と呼ばれた豫東紅槍会の婁伯尋は1928年に殺害されましたが、その遺徳を称えた頌徳碑が三県の人士により建てられたのは1931年です。国民党の白色テロが吹き荒れたこの時期に反乱を起こした婁伯尋を称える記念碑を建てるのは政治的に非常に危険でしたが、それでも建てました。

日本軍占領下においてのみ存在できた記念碑は、婁伯尋の記念碑に比べると色あせる感が否めません。


参考:「中国革命を駆け抜けたアウトローたち (中公新書)」(P95-97、139)