南沙諸島に対するフィリピンの領有権主張の変遷

南沙諸島の領有権に関し、中国(中共・台湾)やベトナムは古来から同海域を認識し、領有してきた、という主張しています。20世紀に入ってからでも、1930年代にベトナムを植民地としていたフランスや中華民国が公式に自国領であることを主張しており、主張内容は一貫しています。
戦後も直ちに占領するなど領有の意思は明確だと言えます。
フランス・ベトナムベトナム独立戦争(第一次インドシナ)で南沙諸島どころではなくなり、中華民国南沙諸島領有権主張において主導的な地位になりますが、その中華民国国共内戦で台湾に撤退し、南沙諸島には力の空白が出来ることになります。

ところで、南沙諸島の領有権を争っているのは、中華人民共和国中華民国ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイの6カ国ですが、マレーシアとブルネイは海洋法条約(1982年)における大陸棚延長に基づく領有権主張で、南沙諸島の一部のみを対象としています。中国(中共・台湾)とベトナムは歴史的経緯から、南沙諸島全域の領有権を主張しています*1
では、フィリピンはどのような根拠で領有権を主張しているのでしょうか。

フィリピンの南沙諸島領有の根拠1

The DIPROMATによれば、フランスが南沙諸島を併合した1933年、フィリピン上院が抗議していますが、当時アメリカの植民地でありアメリカはその抗議を無視しています。戦後の1946年・1947年にもフィリピンは南沙諸島の領有権を主張しています*2
ただし、これらの主張の根拠はよくわかりません。
フィリピンの領域を1898年のパリ条約に従うとするならば、南沙諸島はフィリピン領とは主張できません。アメリカが1933年のフィリピン上院の抗議を黙殺したのもそれが理由かもしれません。現実問題として、パリ条約によってフィリピンを植民地化したアメリカとしては、パリ条約で認められた範囲外の領土要求に手を貸すわけに行かなかったでしょうね。
植民地支配を受けていたが故の領土要求の黙殺と言う点では、日本による植民地化の中で韓国領であることを主張できなくなった独島(竹島)問題に似ているとも言えます。
独立した韓国は戦後、日本から独島(竹島)を取り戻し実効支配するに至りますが、戦後もなおアメリカの影響下にあったフィリピンにはそれができませんでした。

Tomas Clomaの「新発見」

とは言え、1950年代になると軍事的見地から南沙諸島がフィリピンの生命線であるという認識が生じてきます。当時、中国が共産党の手に落ち、ベトナムにもその影響が及び東南アジア全域が赤化するのではないかという懸念、いわゆるドミノ理論が西側世界に広まっていました。インドシナ半島が赤化した場合、フィリピンは南シナ海を挟んだ冷戦の最前線となります。フィリピンにとって、南沙諸島は防衛上無視できない存在となってきたわけです。
ちょうどその頃、フィリピン人のトマス・クロマが南沙諸島を「新発見」し、その領有権を主張します。1956年5月、クロマは「Freedomland」と名乗る新国家樹立を宣言します。
もちろん、南沙諸島の存在は当時既に知られており、少なくとも中華民国が明確に自国領であると主張していましたから、その領土を勝手に「発見」し国家を樹立するなど暴挙でしかありません。台湾は激しく抗議し、イツアバ島を再占領し圧力を加えます。
一方のクロマは、「新発見」した島々は南沙諸島とは異なると主張します。クロマの主張では、南沙諸島とは南威島(Spratly島)より西の島々のことで、「Freedomland」とは違うということになります。
もちろん、クロマの主張には説得力が皆無で、台湾政府による支配が緩んでいた力の空白に付け込んで奪取し実効支配に及んだ、という他ありません。

では、クロマの主張に対し、フィリピン政府はどう応じたのでしょうか。

The vice president of the Philippines replied in 1957, assuring Cloma that the government did ‘not regard with indifference the economic exploitation and settlement of these uninhabited and unoccupied islands by Philippine nationals.’

http://thediplomat.com/2010/11/aquinos-spratly-islands-call/

フィリピン政府は、これらの無人島に対して経済開発や入植の意思を持っていない、と1957年に回答しています。政府としてクロマを積極的に支援しない、という意思表示であり、同時に、これらの島は「these uninhabited and unoccupied islands 」であると主張することによって、どこの領土でもない、という含みを持たせてもいます。

That time, Manila disavowed participation to Cloma’s adventures but left door open by describing islands as terra nullius (nobody’s land).

http://www.pressreader.com/philippines/manila-bulletin/20150527/281706908277194/TextView

つまり、フィリピン自身が南沙諸島に対して領土的野心があることを暗示していたわけです。

フィリピンの南沙諸島領有の根拠2

その後、1960年代に関してはフィリピン側に特に動きが見られません。ベトナム戦争真っ只中で、南ベトナムや台湾と衝突するような行動を避けたからかもしれません。しかし、1970年代に入るとフィリピン政府が動き始めます。
1971年にいくつかの島を軍事占領し、その後4年で6つの島に軍事施設を建設します。
そして1978年、マルコス独裁政権がクロマを投獄し、1ペソで「Freedomland」を買い取ってしまいます。

In 1978, President Ferdinand Marcos issued a proclamation declaring ownership of most of the islands in the Spratlys. The area was renamed the Kalayaan (Freedom) Island Group.
Militarization of the Spratlys started in the 1970s when the Philippines sent a military contingent to occupy some of the islands in 1971; within four years, the Philippines had established a military presence on six islands.

http://thediplomat.com/2010/11/aquinos-spratly-islands-call/

これにより、フィリピンは南沙諸島の大部分の領有権を主張し、Kalayaan(「自由」の意)と名づけます。当然、領有権主張の根拠は、クロマの主張に沿ったものでした。
すなわち、南沙諸島とは南威島(Spratly島)より西側の島だけを指し、Kalayaanとは別であるという苦しい主張です。
この1970年代は南ベトナム南沙諸島の編入を宣言(1973年9月)するなど、南沙諸島を巡る対立が激化した時期にあたります。米軍がベトナムから撤退したことで東南アジアの自由主義陣営に亀裂が入ったと言えるでしょう。

この経緯を知っていると、中国側の反論にもそれなりの言い分はあると理解できます。

「南中国海係争の事実の経緯を振り返りさえすれば、次のことが分かる。1970年代に中国の南沙(英語名・スプラトリー)諸島の一部の島や礁を武力で不法に占領したのはフィリピンだ。(略)」と華報道官は指摘。

http://j.people.com.cn/n/2015/0604/c94474-8902221.html

フィリピンの南沙諸島領有の根拠3

しかし、さすがにクロマの主張は無理がありすぎ、国際的には通用しないとフィリピン政府にも自覚があったのか、後に主張の根拠をシフトさせていきます。新たな根拠としたのが国連海洋法条約(1982年)です。200海里のEEZ内だという主張です。
1970年代までに占領した島の領有権の根拠を1980年代に成立した条約に求めたわけです。

さて、1980年代に入ると中華人民共和国による実効支配が及ぶようになってきます。中華人民共和国の領有権主張の根拠は当然ながら中華民国と同じです。新中国になってからも1958年に領海宣言を出しており、領有権の主張はしているわけです。(1951年の外交声明でも南シナ海での領有権を主張)*3

[文書名] 中国の領海宣言
(一)中華人民共和国の領海の幅員は,十二海里とする。この規定は,中国大陸とその沿海島喚嶼,および同大陸とその沿海島嶼と公海を挾んで位する台湾およびその周辺の各島,澎湖列島,東沙群島,西沙群島,中沙群島,南沙群島その他中国に所属する島嶼を含む,中華人民共和国の一切の領土に適用する。

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPCH/19580904.O1J.html

ところが1970年代後半になるとフィリピンやベトナムなどの占領・実効支配が加速し、遅れて1980年代後半に中国が実効支配の獲得に乗り出し始めます。
中国にとっては、自国領を不当に占領している他国を追い出すという認識でしかありません。日本政府が、南クリル(北方領土)をロシアが不法に占領しているとか、独島(竹島)を韓国が不当に占拠しているとか主張しているのと同じ認識です。
1987年にファイアリー・クロス礁(永暑礁)を実効支配し、1988年3月にはジョンソン礁(赤瓜礁)を巡ってベトナムと交戦、実効支配下に置いています。1994年には、フィリピンの実効支配下にあったミスチーフ礁に中国側が構造物を建てて占拠しています。1995年2月にこの事件がフィリピンにより公表され、対中国の危機感が高まっていきました。

ミスチーフ礁事件

1994年12月29日に中国船がミスチーフ礁に入り建造物を構築。1995年1月17日にフィリピン漁船がミスチーフ礁で中国船を発見し、2月2日にはフィリピンの巡視船や偵察機が現れ緊張状態となり、約2ヵ月間対峙しました。
1992年に在比米軍が撤退していたことが中国側の行動を招いたと言われますが、実際には何とも言えないでしょう。米比相互防衛条約(1951年)は当時も有効でしたので、中国側からすれば米軍が出てこないと確信できるわけもありませんし、中国側もミスチーフ礁を占拠する際に武力衝突を前提としていませんでした。米軍が出て当然と考えられるほどの状況ではなく、米軍にしてもパリ条約の範囲外であり、米比相互防衛条約締結時にフィリピン側が領有権を主張していなかったミスチーフ礁が、米比相互防衛条約の適用範囲だとはみなしませんでした*4。もっとも、米国にとって南シナ海は太平洋とインド洋を結ぶ重要な海域であり、領土問題の平和的解決を強く望んではいたため、ミスチーフ礁事件に対して懸念を表明してはいます。
ミスチーフ礁事件は、もともと領土問題において強硬な中国とベトナムの間ではなく、穏健なフィリピンに対して起きた事件であるということ、平和的な解決を志向していた1990年代前半の流れを覆し緊張を高めたこと、特に二国間協議の限界が見えてきて欧米日も含めた多国間協議の必要性を痛感させたことに意味があると言えるでしょう。

ミスチーフ礁事件後

ところで別に中国の実効支配拡大を前に他の国が何もしなかったわけではありません。
1980年代から1990年代にかけて、台湾、ベトナム、フィリピン、マレーシアは実効支配している島に滑走路を建設しています。台湾はイツアバ島に1200m級の滑走路を整備し、ベトナムはスプラトリー島に600m級滑走路を、フィリピンはチツ島に1200m級滑走路を、マレーシアはスワロー礁に1000m級滑走路(後、1400mに拡張)を建設しています*5
実効支配する島嶼についても、1998年にベトナムが2つの島礁を、1999年にはフィリピンが2つの島礁を新たに占拠しています。1999年にフィリピンが占拠した環礁の1つがアユギン礁(セカンドトーマス礁)です。
紛争の海、最前線は座礁船だった フィリピン×中国(機動特派員・柴田直治)2014年8月18日」でも述べられているように、第2次大戦中の戦車揚陸艦だったシエラマドレ号を座礁させ、難破船という名目でフィリピンによる実効支配の拠点としたわけです。
もちろん、誰も占拠していない場所をフィリピンが占拠したわけじゃありません。アユギン礁には、1987年に中国が構造物を建設していました。そこをフィリピンが奪取したわけです。
実際のところ平和的な協議と並行して、各国とも入り乱れて取ったり取られたりを繰り返し、実効支配を強化するための軍事施設の増強を行っています。
それでも2002年には平和的な協議が南シナ海行動宣言*6という形で一応の妥結を見ます。
2003年のイラク戦争以降、国際的な協調が崩れ始めますが、2005年頃までは南シナ海での協調的な動きが継続しました。しかし、数カ国の主張が複雑に入り組んだ南沙諸島での2国間協議は難航し、2000年代後半には再び緊張が高まります。

それぞれの言い分

中国やベトナムは早期から南沙諸島の領有権を主張していました。しかし、インドシナ戦争国共内戦などで支配力が手薄になり、その隙に南沙諸島をフィリピンなどに「不当に」奪取されたと認識しています。その認識からは、国力の増大と共に実効支配を回復させようとするのは当然でしかありません。
一方のフィリピンにとっては、近接する要衝である南沙諸島を現に実効支配されていなかった時期に占拠したわけで法的な根拠は希薄でしたが、元々アメリカの植民地であり主張できなかったが自国にほど近い南沙諸島の領有権を主張するのは当然という認識があります(200海里は後付)。今さら国力を付けたからと理由で返せと言われて返せるものでもなく、根拠を海洋法条約にシフトしてでも守ろうとするのもまた当然と言えます。
実効支配の争奪戦における後発である中華人民共和国は、領有の根拠を中華民国と同じくしていますが、台湾、ベトナム、フィリピン、マレーシアが滑走路まで建設して軍事化しておいて、中国が軍事基地を建設するのは認めない、というのは納得できるものではないでしょう。
逆に、圧倒的な国力を持つ中国が同じ土俵に乗ってくることに他の国が警戒するのもまた当然ではあります。
航路の安定を願う米国にとっては、南沙諸島で軍事紛争が生じることが一番避けたい事態であり、それが多国間での平和的な協議を推奨する理由でもあります。

オバマ大統領が2015年6月1日に「中国の主張の一部は正当なものであるかもしれない」と述べたのはこういった背景があるからです。

オバマ大統領は1日、ホワイトハウスで開催された東南アジア諸国の若者との会合で、中国が南シナ海で人工島を建設していることについて、「いかなる当事者も領有権を主張し、攻撃的な行動を取ることは非生産的である」と述べた。また、「中国は巨大で協力であり、中国人は能力を持っており勤勉だ。中国の主張の一部は正当なものであるかもしれない」と述べた上で、「だが、相手を肘で付いて押し出すような方法で確立すべきではない」と主張した。

http://www.recordchina.co.jp/a110544.html

どうも日本では、中国の主張のみが一方的に不当であるという先入観に支配されていて各国の領有権主張の根拠を冷静に検証したりしない傾向があるようです。このような先入観は尖閣諸島での領有権争いの当事者意識が単純に南沙諸島の領有権争いに拡大されて形成されたと考えられますが、公正さに著しく欠けていると言わざるを得ません。

フィリピンの南沙諸島領有の戦略

2013年1月22日、フィリピンは南沙諸島の領有権に関し中国を仲裁裁判所に提訴しました*7。その際にフィリピンが主張した根拠は、クロマの主張ではなく、海洋法条約に基づく200カイリです*8
中国側は応じていませんが、仮に応じたとしても、フィリピンの主張どおりの結果になるかは微妙だと思います。
200海里を前提で考えるにしても、基点となるのはフィリピンだけではなく台湾やベトナムが実効支配している島嶼も基点になりうるからです。
しかし、現状としてフィリピンにとって中国側と軍事的に対抗できるだけの能力はない以上、他国を味方に引き入れるために裁判は有効な手段であると言えます。

そしてフィリピンにとって理想的な展開は実効支配している南沙諸島米比相互防衛条約の適用範囲だとアメリカに認めさせることにあります。尖閣諸島日米安保の範囲であると何度も言及させた日本に倣いたいというのが、日米に擦り寄るフィリピンの本音でしょう。
アメリカは1995年のミスチーフ礁事件で米比相互防衛条約の適用範囲外とした経緯から簡単にフィリピンの思惑に乗るとは思えません。フィリピンにとって現時点で一番くみしやすいのが、対中国包囲網形成に熱心な安倍政権日本です。
反中世論が十分に形成されており、フィリピンを一方的な被害者とみなす論調にあふれ、圧倒的な議席数を誇る安倍政権は集団的自衛権行使も解釈改憲で容認し、戦争法案も強行採決できるだけの支持率を持っています。非合理的なまでに中国との対抗意識にあふれている日本に協力を求めるのは、外交的には極めて容易なことでしょう。何しろ、フィリピン側から積極的に日本国内でロビー活動するまでもなく、勝手に日本のメディアが反中世論を盛り上げてくれるわけですから。

フィリピンにとっては日本やアメリカが同盟国として軍事的な後ろ盾になってくれれば最高の結果であり、そこまで行かずとも武器などの軍事的な支援を得られるのはほぼ確実です。
こういったメリットに対してフィリピンが支払う代価は、最悪でも日本に対する軍事基地提供程度で済み、下手すれば安倍政権に対するリッピサービスだけで済んでしまう可能性もあります。
安倍政権にとっては、自衛隊駐留や集団的自衛権行使容認を歓迎し、安倍政権の歴史修正主義を擁護し、反中意識を共有してくれるフィリピンの存在は、国内の反対勢力を黙らせる上で極めてありがたいものです。日本国民が民主的な憲法を失おうが、戦争に巻き込まれて自衛隊員や民間人が死傷しようが、フィリピン政府にとって気にするような問題ではありません。
自衛隊の軍隊化、憲法改正、戦争法案成立を狙う安倍政権とフィリピン政府は現状、極めて理想的なWin-Winの関係になっています。

もっともフィリピンにとっては南沙諸島等での領有権を一定程度確保・容認されれば、それ以上に中国側と対立する必要はないわけで、その点で中国包囲網というイデオロギーに染まった安倍日本とのずれがあるわけですが、しばらくはそのずれが大きなものになることはなさそうですね。