徴兵制非合理論の栄光と挫折-オーストラリアの事例

オーストラリア憲法には、徴兵制を合憲とする明示規定はありません。同時に日本国憲法のような苦役を禁止する条文も存在しません。
憲法上明示されている権利は、財産権、陪審制、および政教分離と信教の自由などと言ったもので、かなり限定的です*1
このため、防衛権限を持っている連邦政府が徴兵制を施行したとしても、憲法上はこれを阻止することは出来ません。だからと言って市民は唯々諾々と従ったわけではありませんでした。
徴兵制はオーストラリアにとって20世紀を通じた論争の的となったのです。

Conscription

Conscription, compulsory military service for young men, has been a contentious issue throughout Australia's history. The Defence Act 1903 was one of the first pieces of legislation passed by the new Commonwealth government, and it gave the government the power to conscript for the purposes of home defence. The legislation did not allow soldiers to be conscripted for overseas service.
The Universal Service Scheme was the first system of compulsory military service in Australia. The legislation for compulsory military training was introduced in 1909 by Prime Minister Alfred Deakin, and was passed into law in 1911. This scheme was abolished by the Labor government immediately following its election in October 1929.
Compulsory military service for duty within Australia was revived in 1939, shortly after the outbreak of the Second World War. There was to be no conscription for service overseas, but instead, in a bill passed in February 1943, "Australia" was defined in such a way as to include New Guinea and the adjacent islands. This obliged soldiers in the Citizen Military Force (CMF) to serve in this region, known as the South-West Pacific Area.
Compulsory military training was brought back in 1951 by the Liberal government as the National Service Scheme. The scheme was criticised as being irrelevant to modern defence needs, and for being a drain on the Regular Army's finances and manpower. In 1959 the scheme was abolished. National Service was re-introduced in 1964, and in May 1965 the Liberal government introduced new powers that enabled it to send national servicemen to serve overseas. From 1965 to 1972, 15,381 national servicemen served in the Vietnam War, with 200 killed and 1,279 wounded. The National Service Scheme was abolished on 5 December 1972 by the newly elected Labor government.

https://www.awm.gov.au/encyclopedia/conscription/

Conscription

徴兵制

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 男子を対象として、軍務への参加を義務づける制度を指す。徴兵制の問題は、20世紀のオーストラリアにおいて論議を呼んだ問題の1つであった。
 オーストラリアで初めて兵役義務が法制化されたのは、1903年のことである。1903年連邦防衛法により、戦時下での男子に対する兵役義務が定められたが、その範囲はオーストラリア連邦内に限られており、海外での軍務については戦時、平時を問わず免除された。その後制定された1909年防衛法では、兵役義務が平時にも拡大されたものの、軍務の範囲は連邦内に限定されたままであった。1911年には、12歳から25歳までの男子を対象とした軍事訓練が実施された。この制度では、1915年までに60万人以上が登録したが、訓練を受けたのは約16万人であった。この制度は不定期のもので、外国人や神学生、学校教師、健康上の問題がある人々などは兵役を免除され、兵役義務の対象となるのは、訓練地近郊の人々に限定される状態が、第1次世界大戦期まで継続した。
 第1次世界大戦開戦後、ヒューズが率いる連邦政府は、戦時下での海外軍務も含めた、男子に対する兵役義務を法制化しようと企てた。激しい議論のただ中で最初の国民投票が1916年に、続く1917年にも投票が実施されたが、いずれも提案は否決された。この国民投票が原因で労働党は分裂した。第1次世界大戦中には、入隊適齢男子を対象とした軍事訓練は一時停止され、士官候補生の育成に精力が注がれた。また、志願兵からなるオーストラリア帝国軍(AIF)が活躍した。
 両大戦間期1920年代、軍事訓練は徐々に減少していき、スカリン労働党政権時代の1929年、兵役義務は完全に廃止された。しかし、第2次世界大戦が勃発した1939年に、まずオーストラリア国内での20歳以上の未婚男子の兵役義務が、メンジーズ統一オーストラリア党政権により導入され、市民軍the Citizens Military Forces(CMF)が編成された。1943年には海外軍務についても、カーティン労働党政権下において、制限を設けた形で施行された。徴兵された兵士たちもオーストラリアを離れ、「南西太平洋地域」内の指定地域へと派遣された。既出のAIFは市民軍と協力し、第2次世界大戦中にも目覚ましい活躍を見せた。
 第2次世界大戦後の1951年、メンジーズ自由党政権によって、国民兵役計画として知られるようになる兵役制度改革が行われた。これにより、18歳の男子に半年間の兵役が義務づけられた。参加者は、陸海空の入隊先を選択することができたため、海外軍務のない陸軍に希望が集中した。この計画は1960年6月に廃止され、代わって1964年に新たな徴兵制度が導入された。抽選により選ばれた20歳の男子は、陸軍での2年間の兵役を義務づけられ、海外軍務に送られる場合もあった。ホルト自由党政権は同計画に基づき、ヴェトナム戦争へ兵士を派遣した。この計画の下で、およそ6万4千人の人々が徴兵され、このうちヴェトナムで任務に就いた者は、1966年から1972年の間で1万9千人に上る。また、これらの人々以外にも、市民軍といった形で軍務についた人々も存在した。上記の状況を受けて、徴兵制についての激しい議論が再燃し、まず兵役期間が18ヵ月へと短縮された。そして、新たに成立したホイットラム労働党政権により、1972年12月、オーストラリアにおける徴兵制は完全に廃止された。
 津田博司0501 

http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/00282_Conscription.html

基本的には、戦時には徴兵制を施行し平時に戻ると徴兵制を廃止するということを繰り返してきたと言えます。
義務兵役に対する市民の抵抗は強く、1916年、1917年の二度に渡る国民投票(Plevisite)で徴兵制を否決しています。ちなみに連邦レベルの国民投票(Plevisite)は過去3回行われていますが、そのうちの2つが徴兵制に関わるものでした*2

オーストラリアの“徴兵制非合理論”

こういう記述がオーストラリア政府サイトにあります。

Compulsory military training for the nation's young men was reintroduced in 1951 by the Liberal Government. It was the third such scheme to have existed in Australia since Federation. Eighteen-year-old men were required to partake in the National Service scheme, which meant that they had to undertake 176 days of military training. Those who elected to undertake their training in the army could break up their training requirements into two periods, 98 days in the regular army and 78 days in the Citizen Military Forces (CMF). Those who elected to undertake their training with the RAN or the RAAF had to complete their 176 days in one stretch. The scheme was criticised as being irrelevant to modern defence needs, where skill was becoming more important than numbers, and for being a drain on the regular army's finances and manpower. In 1959 the scheme was abolished.

若者に対する強制軍事訓練は、1951年に自由党政権によって再開された。これはオーストラリアが連邦制になってから3度目の兵役制度であった。18歳男子は兵役計画(National Service scheme)、すなわち176日間の軍事教練を受ける義務を負うことを要求された。陸軍での訓練を選んだ者は、教練期間を正規軍(the regular army)での98日間と市民軍(the Citizen Military Forces (CMF))での78日間の2つに分けることができた。海軍や空軍での訓練を選んだ者は、そこで176日間の訓練を完遂しなければならなかった。この制度は、現代の防衛ニーズの観点から時代遅れだと批判された。すなわち、兵士の人数よりも技術こそがより重要であり、正規軍の予算と人的資源を無駄にするだけだという批判である。1959年にこの制度は廃止された。

https://www.awm.gov.au/encyclopedia/conscription/vietnam/

「「防衛装備のハイテク化」を挙げ、「兵士として役に立つためには相当時間がかかる。(徴兵制では)教育が終わったら辞めてしまう。自衛隊にとって負担にしかならない」*3と騙った某首相と似たような理屈ですが、オーストラリアの上記“徴兵制非合理論”は、1950年代の話です。この1959年の兵役制度廃止から5年後の1964年、兵役制度は四度の復活を果たし、1965年には徴兵した兵士を海外派兵できるように法改正されます。言うまでも無くベトナム戦争参戦のためです。
“徴兵制は非合理的だ”という批判により一度は兵役制度を廃止に追い込むことができたものの、現実に戦争に直面し海外派兵を行うことになると徴兵制を禁止できる人権規定のない憲法下では“徴兵制非合理論”など簡単に吹き飛ばされ、徴兵制が復活し徴兵した兵士の海外派兵まで簡単に成立するに至りました。

National service was brought back for a fourth time in 1964, and in May 1965 the Liberal government introduced new powers that enabled it to send national servicemen overseas. At that time Australian soldiers were involved with the war in Vietnam, and the Menzies government wished to raise the army's numbers to 40,000 in order to meet overseas commitments.

https://www.awm.gov.au/encyclopedia/conscription/vietnam/

日本国憲法第18条のように刑罰以外の意に反する苦役を禁止する条文が存在しないオーストラリアでは、政府が徴兵制を志向した場合にそれを止める術がありません。

日本国憲法

第十八条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

1950年代に掲げた“徴兵制非合理論”などはベトナム戦争という現実の前に簡単に吹き飛んでしまいました。
現在の日本では、「徴兵制を導入する合理的な理由はない」*4と言いつつ、兵役は苦役ではないという政治家や軍オタが大勢います*5

それがどういう結果を招くのか、少しでも頭を使えばわかりますよね。

*1:http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/document/2003/2/20030206.pdf

*2:残る一つは国歌の制定に関する国民投票で1977年に実施。4つの候補の中から選ぶという投票でした。「オ-ストラリア憲法憲法の改正」関根照彦、東洋法学、1990-03、http://id.nii.ac.jp/1060/00003542/

*3:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150713-00000154-jij-pol&pos=3

*4:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150713-00000154-jij-pol&pos=3

*5:「自民・中谷議員「徴兵制が『苦役』というのはとんでもない」」2015年6月30日 14:55、http://www.zaikei.co.jp/article/20150630/256568.html