連合軍翻訳通訳部局(ATIS)関係文書「AMENITIES IN THE JAPANESE ARMED FORCES」の日本語要約部分

米国国立公文書館・国立国会図書館所蔵資料」の記事に「I.連合軍翻訳通訳部局(ATIS)関係文書」のリストを載せていますが、「26.調査報告書 No.120(1)」については長文のため略しています。
ネット上でこの資料が少し話題になったため、ビルマ関連部分については原文を照会しました。
ついでに、日本語要約部分についても、若干の補足と共に照会しておきます。

(pdf:P110-115)

日本軍における娯楽

II-九 慰安所
a 規則
(1)マニラ
 (a) 軍発行の「マニラにおける軍公認の食堂及び慰安所に関する規則」(一九四三・二)の抜粋
 五、軍公認の食堂または慰安所を経営しようとする者は下記の文書をマニラ軍当局に提出しなければならない。経営者は営業経験のある日本人に限る。
  a 改行許可申請書:三部
  b 営業計画書:三部
  c 宣誓供述書:三部
  d 履歴書:三部
 六、開業を許可された者は営業に必要な雇員一覧表(三部)、各雇員の履歴書(一部)、慰安婦(芸者、酌婦)申請書(三部)をマニラ軍当局に提出すること。右手続きが完了し、営業地の視察並びに雇員の身体検査が終了して初めて開業が許可される。
 七、雇員の変更を希望する場合は軍当局の許可を得ること。従って、離任を希望する慰安婦は申請書を提出しなければならない。慰安婦の配置換えを希望する際も申請書を提出しなければならない。
 八、慰安婦の増員を希望する経営者は軍当局に通知すること。身体検査の日時を追って通知する。身体検査終了後、診断書、履歴書、身分証明書を軍当局に通知すること。許可前に慰安所内に立ち入ることを禁ずる。
 九、軍公認の食堂または慰安所として使用される建物は軍当局の認可を受けなければならない。規則を遵守できない経営者は強制退去させる。建物の修繕が必要な場合には必ず事前に届け出ること。
 一〇、慰安婦は、原則として契約期間の終了後も再雇用してよい(但し右は少なくとも一年以上海外にいた者には適用しない)。雇用の継続を希望する者は軍当局に申請し許可を得ること。
 一一、軍当局は、原則として未成年者を芸者もしくは酌婦として雇用することを禁ずる。但し一定の条件により未成年者をメイドとして雇用することを許可する場合がある。未成年者の雇用には軍当局の許可を必要とする。
 一三、営業時間は午前〇時まで(食堂については午後一一時まで)とする。
 (b) マニラ陸軍航空隊貯蔵所の軍命令草案・会報集(一九四四・八・一四〜一九四四・一〇・一四)の抜粋
(2) 南部地域。南部司令部(おそらく上海地域)発行の軍慰安所関係の諸規則
 (a) 南部軍兵舎特別慰安所に関する規則
 (b) 南部軍特別慰安所経営規定
(3) タクロバン
「タクロバン慰安所規定」から抜粋
(4) ブラウエン(タクロバン司令部管内)
慰安所規定」(一九四四・八)から抜粋
(5)ラバウル
ラバウルにおける海軍慰安所に関する注意事項」(一五対空防衛部隊所有)から抜粋

b ビルマ
(1) 一九四四年八月一〇日に妻及び二〇名の慰安婦とともに捕虜となった民間人慰安所経営者の証言
 ・ソウルで食堂を営んでいたが、経営に行き詰まり、慰安婦ビルマに連れていく許可を軍に申請した。
一名当たり三〇〇円から一〇〇〇円を家族に払い、一九歳から三一歳までの二二名の朝鮮人女性を買った。朝鮮軍司令部は輸送、配給等について便宜を図ってくれるよう全ての軍司令部に対し要請する旨の所管を出してくれた。七〇三人の朝鮮人女性、九〇人の日本人の集団で一九四二年七月一〇日、釜山から出航し八月二〇日、ラングーンに到着した。ラングーンで二〇〜三〇名のグループに分けられ、ビルマ各地に配置された。
 ・ミッチーナーでは自分のを入れて全部で三つの慰安所があり、六三名の慰安婦がいた。三か所にはそれぞれ二二人の朝鮮人女性、二〇人の朝鮮人女性、二一人の中国人女性(広東で買われた)がいた。
 ・慰安婦は売上げの半分を受領し、交通費、食費、医療費は無料という条件で雇用されていた。家族への前渡金及び利息を弁済すれば、無料で朝鮮に送り返され自由になると考えられていた。
しかし、戦況の影響で自分の慰安所にいた慰安婦は誰も帰国を許されなかった。一九四三年六月に第一五軍司令部は弁済を終えた慰安婦を帰国させる手配をしたが、条件を満たして帰国を希望していた一人の慰安婦は説得されて引き続き現地に留まった。
 ・自分の慰安所では、慰安婦の平均収入は月当たり三〇〇円〜一五〇〇円であったが、規則で最低月一五〇円は経営者に収める事になっていた。
 ・慰安所は第一一四歩兵連隊の監督下にあり、通常二名の兵士が利用者の監視のため派遣されてきていた。憲兵も一名慰安所を警備していた。一日の慰安所の利用者数は、兵士・下士官が八〇〜九〇名、士官が一〇〜一五名であった。慰安所内では酒類は自由に販売されていたが、泥酔者が出ないよう憲兵が監視していた。
 ・一九四四年七月三一日の夜中に、六三名の慰安婦及び経営者がミッチーナーからの避難を開始した。一〇隻の小船でイラワジ川を渡った。二〇名の中国人慰安婦はジャングルに残され、中国軍の手に委ねられた。八月一〇日に捕らえられたが、六三名中四名は途中で死亡し、二名は日本軍兵士と誤認されて射殺された。
(2)〜(5) ビルマ地域各部隊の日本兵捕虜の証言
・個々の師団には五〜六の慰安所があり、日本人及び朝鮮人慰安婦がいた。

c スマトラ
捕虜(一九四二年一一月一一日にパパキ橋の近くで捕らえられた)の証言
 ・ペラワンに軍の慰安所があり、現地人女性二名と中国人女性六名がいた。

d 南西太平洋地域
捕虜(六名)の証言及び日記
 ・ラバウルには二つの慰安所があり、朝鮮人及び日本人の慰安婦が合計で約一〇〇名いた。
 ・軍が慰安所を提供していたが、兵士二〇〇〇人に対し一人の女性しかいなかった。

http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdf

この報告書は既存の尋問報告を元に作成されています。例えば、「b ビルマ」の部分は「SEATIC Interrogation Bulletin No.2, dated 30 November 1944」の p10-13を、「c スマトラ」部分は、「ATIS Interrogation Report, Serial No. 42」の p10を、「d 南西太平洋地域」の部分は「ATIS Interrogation Report, Serial No. 35」のp8、「ATIS Interrogation Report, Serial No. 175」のp10、「ATIS Interrogation Report, Serial No. 99」のp15、「SOPAC Interrogation Report, Serial No. 0895」のp10、「ATIS Interrogation Report, Serial No. 78」のp7、「ATIS Bulletin No. 1483」の p20等をベースにしています。

「SEATIC Interrogation Bulletin No.2, dated 30 November 1944」については、邦訳が吉見義明「従軍慰安婦資料集」に「東南アジア翻訳尋問センター 心理戦 尋問報告 第二号 一九四四年一一月三〇日」という表題で掲載されており、ここで一部が引用されています。

さらにこの「SEATIC Interrogation Bulletin No.2, dated 30 November 1944」が参照しているのが、有名な「心理作戦班日本人捕虜尋問報告(Japanese Prisoner of War Interrogation Report)四九号」です。