住民が逃げた部落や敵性地区では掠奪し放題で便利、という話

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111515000、晋察冀辺区粛正作戦資料 昭和16年(防衛省防衛研究所)」

晋察冀辺区粛正作戦

業務詳報
昭和十六年八月二十五日 大津集成大隊
   大川主計
一、部隊ノ行動概要
1.大津集成大隊(大津部隊本部同一個中隊、増田部隊ノ一個中隊、同大隊砲、独混九ノ二個中隊)ハ晋察冀辺区粛正作戦ニ参加ノ為太原ニ集結ヲ命ゼラレ列車輸送ニテ八月九日夜太原ニ前進(略)

(略)

三、晋察冀辺区粛正作戦参加人馬数表
(昭和十六年八月二十五日現在)

    将校 下士官 兵  通訳 計  苦力 日馬 支馬
本部  7 19 85 2 113 86 8 51
岡隊  4 17 131 1 153 18 5 28
奥田隊 4 15 130 1 150 32 6 40
松橋隊 4 17 151 1 173 45 1 39
利部隊 3 16 128 2 149 57 1 44
大隊砲 2 17 19 12 2 14
通信  2 16 18 18 2 4
計   22 88 658 7 775 268 25 220

(引用者註:原文は漢数字、原文では苦力計を25と記載。)

(略)

七、物資ノ状況
(略)
2.夏季ノ行動ハ作戦ニ支障ヲ来サザル限リ住民ノ既ニ逃避セル部落乃至ハ敵性部落タリシ処ニ宿営スルヲ最モ可トス 即チ物資補足糧秣ノ蒐集ハ意ノ如クシテ而モ無償ナルガ故ナリ

http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C11111515000

晋察冀辺区粛正作戦は北支那方面軍(岡村寧次)が1941年8月22日夜半から開始した作戦で、大行山脈内の中共軍(八路軍)根拠地(晋察冀辺区)に対する討伐作戦です*1

この作戦後間もなくの1941年11月に岡村北支那方面軍司令官は「焼くな、犯すな、殺すな」という三戒の遵守を訓示したそうですが、麾下部隊が業務詳報に「住民ノ既ニ逃避セル部落」や「敵性部落タリシ処」では「物資補足糧秣ノ蒐集ハ意ノ如ク」「而モ無償」と書くような有様だったのならさもありなん、と思えますね。*2

*1:http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C04123328400http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C04123203100

*2:本題ではありませんが、大津大隊は全体で1000人規模で行動したわけですが、その4分の1が苦力だったというのも興味深いところです。