上海停戦協定の効力に関する件

前記事に関連。

そもそも上海停戦協定第2条の効力はいつまで有効か

停戦協定の文言上は「正常状態の回復後に於て追て取極ある迄」となっています。字面をそのまま解釈すれば「追て取極」されない限り未来永劫続くとも取れます。しかし、この協定は第一次上海事変での日中両軍間の停戦協定であり、その目的は戦火を交えてる両軍を引き離し戦闘再発を防止することである以上、停戦成立して情勢が安定すれば効力が当然に消滅するとも言えます。
1937年の第二次上海事変の責を中国側に負わせることの多い日本には、1932年の第一次上海事変終結後に「正常状態の回復」していても「追て取極ある迄」協定第2条は有効であり、その「追て取極」を行なっていない以上、1937年においても協定第2条は有効であると主張する論者が多いようです。

この解釈は日中間で異なり1937年までの5年間に何度か日中間、時に中立国も含めて議論されました。この頃、上海総領事として日本側の交渉窓口を担当したのが石射猪太郎です。

外交官の一生 (中公文庫プレミアム)
(P236-237)

上海停戦協定の補強−越界道路問題

 上海事件は、中日停戦協定の規定する地域以外に両軍が撤退することによって、引き分け的解決を見たのであるが、この地域の規定が事件解決後も効力を持つや否やについて、中日の間に解釈を異にしていた。事件後中国側は、しばしば南京。杭州間に軍隊を移動し、その軍用列車の通過駅ゼスフィールド・ジャンクションが停戦協定に定むる所の、軍隊立入禁止地域内にあることからして、停戦協定の番人をもって自任する陸戦隊が協定違反を鳴らし、中国側は停戦協定は停戦が完成された時にその寿命を全うしたもので、右地域に関する規定は、その時限りのものであるとの解釈をとった。外務省と海軍省は停戦協定なお有効説を持し、停戦協定の締結に介入したイギリス、アメリカ、フランス、イタリー側は、中国側と解釈を同じくしていた。
 着任後、私の研究したところでは、日本側の解釈に無理があると思ったが、いまさら政府の方針を覆すわけにはいかない。放置すれば陸戦隊は感情的に妄動するおそれがある。そこで私は、この停戦協定の効力の存続を中国側にそれとなく認めさせ、その代りにわが方は、中国軍隊のゼスフィールド通過を承認する折衷案をたて、紆余曲折を経て、外務省と現地陸戦隊を納得させる一方、中国陸軍部次長陳儀氏を動かしたりした。しまいに外交部亜洲司長沈覲鼎氏が乗り出して来て、私との間に話がきまり、私の目的とする文書が、彼我の間に取り交わされ、その結果、停戦協定の効力の存続が中国側によって確認され、中日間のローカルな紛争の一因が取り除かれたのであった。

「停戦協定なお有効説」を主張した日本外務省・日本海軍省に対し、中国側は「停戦協定は停戦が完成された時にその寿命を全うした」説を主張し、中立国である「停戦協定の締結に介入したイギリス、アメリカ、フランス、イタリー側」も中国側と同じ解釈を採っていたわけです。
そればかりか、日本側の交渉を担当した石射本人でさえ、「私の研究したところでは、日本側の解釈に無理があると思った」と述べるほどでした。石射「外交官の一生」では上記引用のように簡略に書かれていますが、実際にはもう少し複雑な経緯があります。

第一次上海事変後の経緯

上海停戦協定が成立したのは1932年5月5日です。日本側は既に戦闘中止を宣言していたとは言え、この時点ではまだ日中両軍を引き離す必要性がありました。
しかし、6月になると日本側は満洲転用のために陸軍を撤退させ、7月には中国側が第19路軍を福建に移駐させて、日中武力衝突再開の危機はとりあえず去りました。この1932年7月時点で、上海停戦協定第2条*1・第3条*2・第4条*3の規定はその役目を終えたと言えます。

中国側の第19路軍移駐前の1932年6月12日、中国側は杭州にいた第9師(蒋鼎文)を南京に移動させるため上海経由で鉄道輸送を行なう旨を日本側に通知しました。杭州から南京に向かう鉄道は上海の“非武装地帯”内部を通っているため、日本側に誤解されないように事前に通知したわけですが、日本側はこれを拒絶し、中立国委員らも停戦からわずか1ヶ月しか経っておらず、第19路軍も上海附近に駐留している状況であったため、中国軍隊の“非武装地帯”内の通過を認めませんでした。
ところで、この第9師(蒋鼎文)の移動は中共討伐のためのものでした。日本側の抗議は、中共討伐のための軍隊移動の妨害となるため、結局、日本側は前例としないことを条件に中国軍の通過を認めています。
翌1933年2月7日、中国軍5000〜6000人が“非武装地帯”内を通過し杭州方面に向かいました。これに対して日本側は中国に抗議しましたが、この時には中立国委員らの態度は前年6月の時から変わっており、イギリス総領事ブレナンは「支那軍ガ協定地域内ニ留リサヘシナケレバ、第二条ノ目的ハ達セラルルモノニシテ、事態平静ナル今日、日本ニ敵意ヲ有セザル支那軍隊ノ単ナル通過ヲ禁ズルコトハ、協定第二条ノ精神ニ非ザルベシ。」*4と日本側に伝えています。日本側は1932年6月の中立国委員らの態度に当て込んで、中国側を追い詰めようとしたものの、第19路軍が駐留中だった協定成立直後と第19路軍が既に移駐した1年後では状況が違うという点が日本側には理解できていなかったわけです。
さすがに交渉当事者である石射は、公式に中立国委員らを集めれば日本に不利な決定が下されるリスクを考慮して、中国側と直接交渉で進めようとしましたが、現地日本海軍(第3艦隊)などは中国側に強く抗議し、中立国委員らを引き出しもし不利な決定が出ても、それに従わず、実力で中国軍の通過を阻止するとまで主張していました。
しかし、ちょうどこの頃、華北では関東軍が熱河侵攻を開始し始め、日本の国際的な立場が不利になったため、海軍の強硬論は小康状態となり、石射の裁量の幅が事実上広がり、石射には時期を見計らう余裕ができました。
1933年11月、福建独立問題に対処する為、中国側は日本側に軍隊移動のための“非武装地帯”通過を認めるよう申入れを行いましたが、日本側は詳細な輸送計画の提出を要求し、しびれを切らした中国軍は日本側の回答前に輸送を開始しました。これに対し日本側は抗議し、石射はこれを機会として、口頭合意だった事前通告を交換公文に改めるよう中国側に要求します。さらに1933年12月になると日本側は、鉄道警備のために配備されていた中国憲兵の存在を問題視し、重大な違反として抗議しました。中国側にとって、この方面の鉄道には要人が乗ることも多いため、憲兵配備は必要なことでした。日本側はそれを認める代わりに、非武装地帯”通過の事前通告を口頭合意ではなく交換公文とすることを求めたわけです。
これが1934年1月19日から3月25日までの7回の会見を経て、3月27日に交換公文締結に至っています。
石射が「停戦協定の効力の存続が中国側によって確認」と言っているのが、この交換公文でした。
この交換公文によって、事実上「停戦協定なお有効説」を中国側は受け入れたことになるため、中国側は公表しないように求め石射もそれを了承しました。外交交渉によって日本は中国に多くの譲歩を強いることに成功しました。
本来、交戦中の両軍を引き離すための停止線が拡大解釈され、主権国家であるにも関わらず自国軍隊の配備が禁止され、通過する場合ですら他国に事前通告を文書で行なうことが義務づけられたわけです。軍事力を行使する野蛮な侵略ではありませんが、帝国主義的外交であったに変わりありません。

実態として、中国側は上海停戦協定をよく守ったと言えます。“非武装地帯”には軍隊を駐留させませんでしたし、大規模に軍事施設を構築することもありませんでした。日本側に抗議された“協定違反”は、国内の軍隊移動に際し交通の要衝である上海を通過せざるを得ないためであり、上海停戦協定の精神に反するようなものではありませんでした。中国側が上海停戦協定に明確に反しない範囲ながらも停戦協定の精神から逸脱するのは、1936年の西安事件後です。具体的には、総数を制限されている保安隊を強化するために警察総隊を増設したり、“非武装地帯”内の北站、江湾、大場、劉行などに警察派出所という名義で防御拠点を修築したりしています*5
中国側が明確に上海停戦協定の遵守を放棄し、“非武装地帯”内に軍隊を進入させるのは1937年7月の盧溝橋事件の後になります。

参考

「上海停戦協定侵犯問題」島田俊彦、武蔵大学論集 第3巻 第1号、武蔵大学学会。
「淞滬警備司令部見聞」劉勁持、『淞沪会战』、中国文史出版社

*1:第二条 中国軍は本協定により取扱わるる地域における正常状態の回復後において追って取極めあるまでその現駐地点に止まるべし 前記地点は本協定附属書第一に掲記さる

*2:第三条 日本国軍隊は昭和七年一月二十八日の事件前におけるが如く共同租界及び虹口方面における租界外拡張道路に撤収すべし、もっとも収容せらるべき日本国軍隊の数に鑑み若干は前記地域の附近の地方に当分の間駐屯せらるべきものとす、前記地方は本協定第二附属書に掲記せらる

*3:第四条 双互の撤収を認証するため参加友好国を代表する委員を含む共同委員会を設置すべし、右委員会はまた撤収日本国軍より更代中国警察への引継ぎの取運びに協力すべく右中国警察は日本国軍の撤収する時直ちに引継ぎを受くべし、右委員会の構成及び手続は本協定第三附属書の定むる通りなるべし

*4:「上海停戦協定侵犯問題」島田俊彦

*5:これらのうち第二次上海事変に間に合ったのは北站の陣地くらいでした