楊天石論文の参考文献記載のちょっとした誤りに対する指摘

日中戦争の軍事的展開 (日中戦争の国際共同研究)」に掲載されている楊天石氏による「1937、中国軍対日作戦の第1年」という章(訳:陳群元)(P97-125)に以下の記述があります。

P101
(略)これと同時に、乍浦と嘉興の間に乍嘉線を修築し、これを呉福線と連結した(14)。その後、龍華、徐家匯、江湾、大場などで包囲攻撃陣地を構築し、「掃蕩上海日軍拠点計画」も作成した(15)。

この記述中の(14)、(15)の参考文献は以下のように記載されています。

(14) 黄徳馨「京滬国防工事的設想、構築和作用」(『八一三淞滬抗戦』北京、中国文史出版社、1987年)40-41頁。また、Liang His-huey, Alexander von Falkenhausen (1934-1938); Bernd Martin, Die Deutsche Beratenshaft im China 1927-1938, (Düsseldorf: Droste Verlag, 1981), ss.141-142を参照。
(15) 『八一三淞滬抗戦』40頁。

で、一応、黄徳馨の「京滬国防工事的設想、構築和作用」を調べてみました。ただ、「『八一三淞滬抗戦』北京、中国文史出版社、1987年」ではなく「『淞滬会戦』北京、中国文史出版社、2010年」に掲載されている版を参照しました。
すると、どうも参照しているのは、黄徳馨「京滬国防工事的設想、構築和作用」ではなく、劉勁持の「淞滬警備司令部見聞」のようでした。少なくとも「江湾、大場などで包囲攻撃陣地を構築」とか「掃蕩上海日軍拠点計画」とかに関する記載は、劉勁持「淞滬警備司令部見聞」にしか見つかりません。

なので、参考文献の記載が間違っているのではないか、というのが一点。

もう一点は、「龍華、徐家匯(略)で包囲攻撃陣地を構築」の部分ですが、「龍華」に関しては記載が無いではないんですが、もともと龍華は淞滬警備司令部の置かれた場所ですから、ここに「包囲攻撃陣地を構築」というのが違和感もあり、「淞滬警備司令部見聞」でもそういう表現になっていないんですよね。「徐家匯」に関しては、この地名そのものが「淞滬警備司令部見聞」に見当たらず、そもそも徐家匯はフランス租界内ですから、そこで「包囲攻撃陣地を構築」したというのもちょっと信じがたい話です。
「淞滬警備司令部見聞」で記載されているのは、以下のようなものです。

『淞滬会戦』北京、中国文史出版社、2010年、P34
 六、修築国防据点工事二十九処。在北火車站、江湾、大場、劉行及び滬西蘇州河南岸等地、選定控制公路、渡口的合適地点、秘密進行構築。

ですので、楊天石氏の記載は本体「龍華、徐家匯、江湾、大場などで包囲攻撃陣地を構築し」ではなく、「上海北站、江湾、大場、劉行などで包囲攻撃陣地を構築し」であるべきではないかなという気がします。
まあ、「龍華、徐家匯」は「滬西蘇州河南岸等地」といえなくはないでしょうが、ちょっと無理があるでしょう(いずれも「蘇州河南岸」には違いありませんが、龍華は「滬西」とは言えないでしょうし、徐家匯はフランス租界内ですからねぇ・・・)。