盧溝橋事件から79年

1937年7月7日、北京(当時「北平」)郊外の盧溝橋で日本軍(支那駐屯軍)と中国軍(第29軍)の武力衝突がありました。
盧溝橋(マルコポーロ・ブリッジ)は紫禁城南西に位置する苑平県城からかかる石橋です。苑平県城には中国地方政府(冀察政務委員会)の軍隊である第29軍の部隊が駐屯しており、その目前で日本の支那駐屯軍は夜間演習を繰り返し実施していました。
満州事変(1931年)で東北三省に加え熱河省を奪われ、さらに長城線を超えて侵入・浸透を謀る日本軍は、河北省東部に冀東防共自治政府という傀儡政府を建てて(1935年)密貿易(冀東特殊貿易)を行って華北経済を混乱させました。その結果、華北の民衆の間には反日意識が高まり、蒋介石国民政府に対して、中共討伐よりも日本の侵略に対抗するべきと訴えるようになります。その状況下で西安事件(1936年)が発生し、国共合作が事実上成立するに至ります。
この西安事件の意味が理解できなかった日本は、中国に対する挑発行動を繰り返し、小衝突を引き起こすことになります。その一つが盧溝橋事件でした。

小規模な武力衝突に過ぎなかった盧溝橋事件でしたが、現地では第29軍の消極的な態度と支那駐屯軍の比較的抑制的な要求によって停戦が成立するに至りますが、日本の近衛政権は早々と三個師団の華北派兵を決定・公表し、中国国民政府は態度を硬化させ、第29軍に対し安易な妥協を禁じ、中央軍を華北に派遣することになります。日中両政府間の対応がエスカレートする中で、停戦が成立していた現地両軍間でも小競り合いが再燃し、日本側は第29軍に対する要求を拡大し、最終的に北京総攻撃に至ります。

参考:通州事件/通州(通県)起義の背景

盧溝橋事件は8年続く日中戦争の発端となった事件ですが、Apeman氏も指摘しているように現在の日本ではほとんど注目されません。
8月6日(広島原爆)、8月9日(長崎原爆)、8月15日(“終戦”)はよく知られていますし、12月8日(真珠湾)や3月10日(東京大空襲)も知られている方でしょう。しかし、日中戦争に係る12月13日(南京事件)や9月18日(柳条湖事件)や7月7日は無視される傾向が強いと言えます。

被害者意識を煽る一方で、加害者意識からは目を逸らす。
戦後日本が70年間続けてきた伝統ですね。