仲裁裁判所の判断に対する中国の今後の姿勢は“無視と宣言しつつ無視した行動は取らない”になると思う

メディアでは、“中国全面敗北、フィリピン完全勝利”というトーンで報道されてますし、実際、確かに中国側に厳しくフィリピン側に有利な判決ではありますが言われるほど一方的な判決でもないように思います。
そもそも一般には、何が争点なのかをちゃんと把握されていないように感じられます。

Historic Rights and the ‘Nine-Dash Line’:

おそらく、これらの報道から一般が認識している判決とは、“南沙諸島に対する中国の領有権を否定”、“中国の領有権主張には一切根拠がない”、“中国は南シナ海から一切手を引け”的な認識でしょう。九段線に対する判決部分から上記のような報道・認識になっていると思われますが、実際の判決文はこうなっています。

The Tribunal concluded that there was no legal basis for China to claim historic rights to resources within the sea areas falling within the ‘nine-dash line’

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そのまま訳すと、「九段線」内の海域における資源に対して歴史的権利があるとする中国の主張には法的根拠がない、となります。“中国の領有権を否定したことに変わりない”とも思われますが、判決は最初に以下のように宣言しています。

In light of limitations on compulsory dispute settlement under the Convention, the Tribunal has emphasized that it does not rule on any question of sovereignty over land territory and does not delimit any boundary between the Parties.

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「海洋法条約の限界を考慮して、裁判所は当事国間の領有権に関するいかなる問題も裁定しないし、いかなる境界線も規定しない」との宣言です。ですから、この判決では、個々の島岩礁に対する各国の領有権主張に関しては、いかなる指示もしていません。つまり、中国が現時点で実効支配している岩礁を確保し続けることも、それ以外の岩礁に対する領有権の主張を続けることも、この判決には抵触しません。

この宣言について、裁判所は後半でもう一度言及していて、そこには一文が追加されています。

Accordingly, the Tribunal concluded that, as between the Philippines and China, there was no legal basis for China to claim historic rights to resources, in excess of the rights provided for by the Convention, within the sea areas falling within the ‘nine-dash line’.

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先の引用文に「excess of the rights provided for by the Convention」(海洋法条約によって認められる権利を超えて)が追加されています。逆に言えば、海洋法条約によって認められる範囲であれば、中国側(それ以外の当事国にも)の領有権主張が認められうる含みを持たせているわけです。

裁判所が九段線の主張を否定したという報道はそれ自体は誤っていませんが、九段線に囲まれた海域全体の資源に対して歴史的権利があるという中国の主張が否定されたのであって、それは同海域内に中国は一切の領有権を持たないという意味ではありません。
元々、中国側も南沙諸島の領有権主張については曖昧な表現を用いており、中国内部でも九段線の解釈が統一されているわけでもありません。九段線内部の海域全体に歴史的権利を有するという解釈の他に、九段線内部に存在する島岩礁の領有権を有するという解釈もあり、中国が国家としてどの解釈を取るのかは明確にしてきませんでした。仲裁裁判所の判決を砕いて言えば「九段線のような曖昧な権利主張は認めない。領有権主張の範囲を海洋法条約に沿って明確にせよ。」となります。いわば争点整理の要求であって、請求却下では無いと言えるわけです。(もっとも領有権に関しては仲裁裁判所は管轄外ですが)
ですので、この判決をもって、「「中国は退け」ということ*1と解釈するのは誤っています。

Status of Features:

フィリピンが提訴で、地形の性質についての確認を求めた対象は中国が実効支配乃至圧力を強めているScarborough Shoal(黄岩島)【訴因3】、Mischief Reef(美済礁)【訴因4、5】、Second Thomas Shoal(仁愛礁)【訴因4、5】、Subi Reef(渚碧礁)【訴因4】、Gaven Reef (North)(南薫礁)【訴因6】、McKennan Reef (西門礁)【訴因6】、Hughes Reef(東門礁)【訴因6】、Johnson Reef(赤瓜礁)【訴因7】、Cuarteron Reef(華陽礁)【訴因7】、Fiery Cross Reef(永暑礁)【訴因7】の10箇所です。
これらに対して、岩礁に過ぎず、領海やEEZ、大陸棚の基点とならないこと、フィリピンのEEZ内であること(訴因5)の確認を求めたわけです。

裁判所は、まず海洋法条約上の島の条件を明示し、その解釈を述べています。

Under the Convention, islands generate an exclusive economic zone of 200 nautical miles and a continental shelf, but “[r]ocks which cannot sustain human habitation or economic life of their own shall have no exclusive economic zone or continental shelf.” The Tribunal concluded that this provision depends upon the objective capacity of a feature, in its natural condition, to sustain either a stable community of people or economic activity that is not dependent on outside resources or purely extractive in nature.

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そして、歴史上の利用状況を踏まえ、

The Tribunal found historical evidence to be more relevant and noted that the Spratly Islands were historically used by small groups of fishermen and that several Japanese fishing and guano mining enterprises were attempted. The Tribunal concluded that such transient use does not constitute inhabitation by a stable community and that all of the historical economic activity had been extractive.

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南沙諸島にはEEZの基点となる法的な島は存在せず、また南沙諸島を一単位とした特別な海域が設定されることもないと結論付けています。

Accordingly, the Tribunal concluded that none of the Spratly Islands is capable of generating extended maritime zones. The Tribunal also held that the Spratly Islands cannot generate maritime zones collectively as a unit.

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そして当然、中国が実効支配している岩礁にもEEZは発生せず、それ故に裁判所としては海域の境界を区切る必要がないと判断し、同海域には中国の有効なEEZが重複する部分もないことから、いくつかの岩礁についてはフィリピンのEEZ内にあると裁定しています。

Having found that none of the features claimed by China was capable of generating an exclusive economic zone, the Tribunal found that it could—without delimiting a boundary—declare that certain sea areas are within the exclusive economic zone of the Philippines, because those areas are not overlapped by any possible entitlement of China.

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南沙諸島最大の太平島でさえ「岩」とみなした仲裁裁判所の判断ですが、おそらく“it could—without delimiting a boundary—declare”という状況を作りたかったという政治的意図の方が強かったのではないかと思えます。南沙諸島のいくつかが「島」であった場合、そのEEZがフィリピンのEEZと重複し、その権利関係が複雑になり、将来的な紛争解決の障害にもなりうるという判断があったのではないでしょうか。
太平島を「岩」とみなすのはかなり無理のある判断ですが、裁判所はそれよりも将来的な紛争解決の道筋を作る方を優先したのかもしれません。
もっともこれは別に問題を引き起こしかねない判断ではあります。沖ノ鳥島について日本は「島」だと主張していますが、中国、韓国、台湾は「岩」と主張しています。今回の判決に沿って判断すれば「岩」と解釈するのが自然でしょうから、沖ノ鳥島問題が再燃する可能性はかなりあります。同様の「島」は他国にも多くありますので、それらの領土問題に今回の判決が波及する可能性が高いでしょうね。

ちなみに、フィリピンの申し立てに対する裁判所の判断のうち島岩礁の性格に関する部分は、「南シナ海中比間仲裁裁判所の判断(2016年7月12日)の島岩礁の性格に関する部分」にまとめてます。

Lawfulness of Chinese Actions:

中国の活動に対する法的判断の部分です。先に南沙諸島の全ての島を法的に「岩礁」だとみなした結果、南沙諸島の周辺には基本的にフィリピンのEEZのみが存在することになります。そのフィリピンEEZ内での中国の活動の一部は違法になるという判断です。
メディアでは、中国の活動は全て違法みたいなトーンで報道されていますが、理路としては南沙諸島EEZ基点となる島はないという前提の下、当然に有効となるフィリピンEEZの範囲の内側での活動は違法性を問えるというものです。

Having found that certain areas are within the exclusive economic zone of the Philippines, the Tribunal found that China had violated the Philippines’ sovereign rights in its exclusive economic zone by (a) interfering with Philippine fishing and petroleum exploration, (b) constructing artificial islands and (c) failing to prevent Chinese fishermen from fishing in the zone.

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ですから、違法だとされているのは、フィリピンEEZ内での(a)フィリピン漁船・パトロールの妨害、(b)人工島の建設、(c)中国漁船操業取締りの妨害 と言った活動になります。これらは、フィリピンEEZ内で適用されますが、領海を形成する「岩」の領海内には本来適用されません。
すなわち、Mischief Reef(美済礁)やSecond Thomas Shoal(仁愛礁)といった「低潮高地」には適用されますが、Scarborough Shoal(黄岩島)のような「岩」には適用されません。そこで裁判所は、フィリピン漁民にはScarborough Shoal(黄岩島)での伝統的な漁業権があると裁定し、中国側にScarborough Shoal(黄岩島)領海内でのフィリピン漁船の取締りを事実上禁止しています。

The Tribunal also held that fishermen from the Philippines (like those from China) had traditional fishing rights at Scarborough Shoal and that China had interfered with these rights in restricting access. The Tribunal further held that Chinese law enforcement vessels had unlawfully created a serious risk of collision when they physically obstructed Philippine vessels.

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領有権については裁判の範囲外ですから、中国側がScarborough Shoal(黄岩島)を実効支配し続けることは判決に反しませんが、フィリピン漁船がScarborough Shoal(黄岩島)に押し寄せても、一切取締り出来ないというのはかなり中国側に厳しい条件です。但し、traditional fishingにあたらない漁業については取締りできるとも解釈できますので、traditional fishingの範囲を巡る争いは続く可能性はありますが。

その他「Harm to Marine Environment」「Aggravation of Dispute」といった判決部分もありますが、略します。

まとめ

仲裁裁判所の判決は、九段線という中国側の曖昧な主張を斥け、南沙諸島には法的な「島」は存在しないと判定した上で、フィリピンのEEZが有効であると判定しました。
したがってフィリピンEEZ内にある低潮高地であるMischief Reef(美済礁)やSecond Thomas Shoal(仁愛礁)についてはフィリピンに主権があります*2。Mischief Reef(美済礁)を実効支配し、Second Thomas Shoal(仁愛礁)に圧力を加える中国側は権利を失うことになりました。
Scarborough Shoal(黄岩島)もフィリピンEEZ内にありますが、「岩」であり領海が発生するため、フィリピンEEZ内の飛び地的な領土として中国側が実効支配を継続することは判決に抵触しません。但し、Scarborough Shoal(黄岩島)領海内でのフィリピン漁民によるtraditional fishingについては受け入れる必要があります。

Mischief Reef(美済礁)がどうなるかは難しいところです。フィリピンEEZ内の低潮高地であり中国側には開発の権利が無いと判定されていますが、中国が海洋法条約に締結(1996年6月7日)する以前に実効支配を開始している(1994年12月)こともあり、ちょっと判断に余ります*3

これらは明らかに中国に不利になった部分ですが、一方で有利になった部分もあります。
Johnson Reef(赤瓜礁)、Cuarteron Reef(華陽礁)、Fiery Cross Reef(永暑礁)、Gaven Reef (North)(南薫礁)については「岩」だと判定されたため、領海を有することが確定しました。“人工島だから領海は生じない”という指摘は出来なくなったわけです。

また、台湾が実効支配するItu Aba(太平島)、フィリピンが実効支配するThitu(パガサ島)、West York Island(リカス島)、North-East Cay(パローラ島)、ベトナムが実効支配するSpratly Island(チュオンサ)、South-West Cay(サウスウエスト島)などを含む南沙諸島の全てのhigh-tide featuresは、法的に「岩」だとした点も中国側に有利になっています。
早くから南沙諸島の領有権を主張していたものの海軍力の不足から海洋進出が遅れ、結果としてフィリピン、ベトナムなどの実効支配を許し、ようやく海洋進出できるようになった頃には主要な島嶼は全て他国に実効支配されており、中国は岩礁しか実効支配できませんでした。初期に実効支配した島にはEEZを認めるといった判決であったとしたら、中国のみがEEZを有さないという不公平な状態になったわけですが、全てについて岩礁であるという判決により、実効支配の早い者勝ちという不公平は若干緩和されたと言えるでしょう。

さらにフィリピンは大統領命令1596号で南沙諸島の一角を「カラヤーン」としてパラワンの一部としていますが、「the Spratly Islands cannot generate maritime zones collectively as a unit.」という判決はフィリピンによる領域的な領有権の主張を無効化したとも言えます。

もちろん、全体的に中国に厳しい内容でありフィリピンに有利な内容ではありますが、中国から一切の権限を取り上げるような判決ではなく、フィリピンの主張が全て認められたわけでもありません。
中国としては判決を公式に受け入れるわけにはいかないでしょうが、だからと言って判決を一切無視した行動を取るかというと微妙です。ある意味、フィリピンEEZの範囲外での実効支配については容認されたとも言え、実効支配している「岩」のいくつかでは太平島同様の「領海」が認められたに等しく、判決までに埋め立ても大方完了させているため、今後判決に反する行動を取る必要性があまり無いとも言えます。
懸案はMischief Reef(美済礁)とScarborough Shoal(黄岩島)ですが、これこそフィリピンとの二国間協議で解決できそうな問題で他国の介入する余地もありませんのである意味やりやすくなったところかも知れません。

中国は外交的に強く反発していますが、「米「対中包囲網」強化へ “暴発”懸念 軍事拠点化どう防ぐ(産経新聞 7月13日(水)7時55分配信)」や「中国、ハーグでやられたら沖ノ鳥島でやり返す(森 永輔)」といった大方の報道・予測とは逆に行動面では判決を尊重するのではないかと個人的には見ています。公式には判決を受け入れず激しく非難するでしょうが、口先のポーズをとりながら。
つまり“無視と宣言しつつ無視した行動は取らない”のではないかと。
まあ、あくまで個人的な観測ですけどね。

*1:「中国、ハーグでやられたら沖ノ鳥島でやり返す」(森 永輔、2016年7月14日(木))での小原凡司・東京財団研究員・政策プロデューサーの発言

*2:Reed Bank についても同様の言及あり

*3:http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20150609/1433860640