通州起義に対応する順義での蜂起

通州事件に関しては、“当初から日本人民間人を虐殺することが目的だった”みたいな主張をする歴史修正主義者がいたりしますが、通州での蜂起と連動して起きた順義の蜂起では民間人被害などは無かったようです。

中国抗日戦争史―中国復興への路
(P45)
 二九日、通県、順義に駐屯していた「冀東防共自治政府」の保安隊一万余名の将兵が蜂起し、平津防衛戦の最後の一幕を演じた。この日の明け方二時、張慶余、張硯田らは通県に駐屯する守備隊を率いて、それぞれ通県にある「冀東政府」と日本軍の兵営を包囲し、日本軍百余名を殲滅し、漢奸殷汝耕を捕らえた。同時に、蘇連章は順義に駐屯している保安隊を率いて約束どおりに蜂起し、日本軍二〇〇余名を殲滅した後、通県で張の部隊と合流した。昼、日本はニ四機の飛行機を出動させて蜂起軍を爆撃した。蜂起軍は死傷がひどく、北京に向かって移動した。北京城外に着いて、はじめて第二九軍がすでに離散していることを知った。日本軍が突撃してきて激しい戦闘となり、蜂起軍はまた重大な死傷をこうむり、殷汝耕も日本軍に連れ去られた。蜂起軍は一二〇個の戦闘小隊となってそれぞれ包囲を突破したが、保定に到達した時には四〇〇〇人余りになっており、残りの大部分は犠牲となった。

日本軍機による爆撃は7月29日午後5時頃、北京城外到着後7月30日昼に独立混成第11旅団の攻撃を受けて敗走しています*1
順義に日本軍独立混成第1旅団が到着したのは7月17日、21日には後続部隊と合流して27日に出撃、小湯山で戦闘を行い(戦死19、戦傷20)、翌28日には沙河鎮を占領(戦死12、戦傷36)しています。
その翌日、1937年7月29日、順義で蘇連章率いる冀東政府保安隊500名が蜂起し、順義に残っていた輜重部隊約40名が攻撃を受けます。

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111130900、支那駐屯歩兵旅団の作戦 昭和12年7月8日〜昭和12年9月上(防衛省防衛研究所)」

一、二十九日、順義方向ニ黒煙天ニ沖スルヲ見ル 後飛行機ノ通報ニ依リ本朝順義野戦倉庫ガ同地保安隊五〇〇名ニ襲ハレ全焼セシヲ知ル人員ハ大島輜重兵大尉以下約四十名七時間ニ亘リ能ク戦フ 戦死七、戦傷七
兵団ハ本日戦闘スルコトナク玉泉山附近ヲ経テ黄村料固庄附近ニ進出ス

http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C11111130900

順義の日本軍は3分の1の損害を出した後、大島大尉らは7月30日深夜トラックで通州に逃げ込んでいます。「蘆溝橋事件―日本の悲劇 (1970年)」(P377)によると、順義での日本軍の損害は戦死11、負傷2、無傷10、とされています(大島輜重兵大尉の発言として)。