察南南境反撃作戦(百団大戦)での損害

百団大戦での日本軍の毒ガス使用の記録」は、独立混成第2旅団独立歩兵第4大隊第2中隊の記録ですが、独立混成第2旅団(人見与一)自身も淶源に殺到した八路軍と激しく交戦しています。

(「岡部直三郎大将の日記 (1982年)」P373-374)
(1940年)十月四日(金)
○人見中将、淶源より帰来。作戦に関し報告す。同中将は多少慎重消極に陥りあるやに感ぜしを以て、反発心を誘発すべく応接の態度に加減をなし、激励的言辞を交えたり。
 我軍の損害
  戦死   一三三
  負傷    六九
  生死不明  三一
  計    二三三
 敵の損害
  遺棄及び搬送屍 一〇二六
       遺棄  二九九
       搬送  七二七
  小銃        二二
本作戦は、我が兵力減少の虚に乗ぜられ、且つ当時恰も各大隊長を張家口に会同せしめありしため、初動に多少不都合ありしが如く、又兵力増加は自動車部隊の包頭よりの帰還遅れしため遅延し、約三日間共産軍をして自由に活動せしめたり。而して翻って、旅団の平素に於ける警備施策を顧みる時、次の欠陥ありしは遺憾にて、予としても相済まざる次第なり。
(略)

岡部駐蒙軍司令官は人見旅団長を「多少慎重消極に陥りあるや」と評していますが、独立混成第2旅団の先代旅団長だった阿部規秀が前年1939年11月、淶源近郊を討伐中に八路軍の反撃を受け戦死していることを考えると、人見旅団長が慎重なのはやむを得ないでしょう。あるいは岡部軍司令官から見れば、戦死するほど積極的だった阿部旅団長と比較して人見旅団長が消極に見えたのかもしれません。