大山事件(虹橋飛行場事件・大山勇夫海軍中尉遭難事件)から80年

今から80年前の1937年8月9日の夕方、上海の虹橋飛行場前の道路で日本海軍陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が中国軍・保安隊の銃撃によって射殺されました。大山事件、大山勇夫海軍中尉(あるいは死後進級した階級である大尉)遭難事件として知られています。中国側では虹橋飛行場事件と呼ばれることが多いようです。

大山事件に関しては何回か記事を書いています。
大山事件と第二次上海事変の背景・1
大山事件と第二次上海事変の背景・2
大山事件(虹橋飛行場事件)の背景としての上海停戦協定第2条における“非武装地帯”に関する件

事件に関する日本側の主張の中には、中国側が待ち伏せしていたとか計画的な襲撃であったかのような主張がありますが、虹橋飛行場前という事件の発生した場所がまず中国側の計画性を否定しています。

・虹橋飛行場は中国の軍専用飛行場
・虹橋飛行場周辺に日本関連施設はない
・1934年に虹橋飛行場を偵察しようとした日本海軍将校も自動車での接近は検問で制止されていた
・1937年8月9日当時、既に華北で日中両軍の戦闘が勃発し上海市内も厳戒態勢にあった

上記の事情から、事件現場である虹橋飛行場前は、日本軍将校が何の気なしに自動車で接近できるような状態ではなかったことは明白です。当然、普通なら日本軍将校を乗せた自動車が来るはずのない場所で、中国軍待ち伏せをするなんてことはありえません。
私個人の考察としては、日本海軍が予測される上海方面での作戦行動に際し、上海方面の中国軍航空部隊の展開状況を偵察するために大山中尉を派遣し、偵察中の日本軍将校と警備中の中国兵が衝突した、というのが大山事件の実態であろうという認識です。

実は笠原教授も大山事件を日本海軍の謀略と捉えた論考を「海軍の日中戦争: アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ」で示しています*1
笠原教授は大山事件を戦死前提での自殺攻撃だとみなしており、それを示唆する資料を数多く論拠として挙げています。納得できる部分もありますが、個人的にはやはり戦死は覚悟の上だが前提ではなく、あくまでも極めてリスクの高い偵察行為だったのではないかと考えています*2

笠原教授の「海軍の日中戦争: アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ」には、大山事件当時、淞滬警備司令部の参謀だった劉勁持の回想が載っています。

(P60-61)
 八月九日、日本軍将校大山勇夫が自動車に乗って、虹橋飛行場に向かって走行してきた。我が側の歩哨に阻止されたので、大山勇夫の車は大きく曲がり、飛行場正門に向かって直進した。我が方の守衛部隊は敵が襲撃してきたと認識して、発砲し、射殺した。このとき、夕暮れが近かったことがあり、形勢は相当緊張した。敵の後続部隊がまだ発見できないので、警備司令部に電話で報告した。朱侠参謀処長はただちに車で駆けつけて対応した。私はすぐに各地に情報を通報し、警戒するように注意した。このとき、鐘桓科長が日本領事館に電話して、「今日午後、あなたがたのところで、軍人が自動車に乗って外出、(租界外の)中国地域に進入したものはいないか」と尋ねたが、「いない」という返答であったので、我が方は再度詳しく調査するように依頼した。
 約三〇分後、領事館から電話があってまだはっきりわからないということだった。我が方から大山勇夫という人物がいるかどうか尋ねると、日本側は慌ててすぐに車で警備司令部に来て、事態を了解した。そして、「大山勇夫は酒が好きなので、酒に酔ってかってに外出した可能性がある」と言った。鐘桓科長は日本側が彼を中国地域に来させたのは、日本側の違反行為であるという立場を堅持して、大山勇夫が大きな誤りを犯したのだと告知した。

事件現場の地理的状況については笠原教授が作成した見取り図が載っています。虹橋飛行場正門までは中国側の警戒線がいくつもあり、大山中尉が意図的に突破しない限り容易にたどり着ける場所ではないことがわかります。

(P63)
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ちなみに上海にある関連施設との地理的関係は以下の通りです。

大山事件関係の位置関係
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A:大山海軍中尉が1937年8月9日に遭難する直前に待機していた上海海軍陸戦隊西部派遣隊本部
B:大山海軍中尉が遭難した虹橋空港
C:日本資本の西部紡績工場
D:上海海軍陸戦隊本部



*1:http://scopedog.hatenablog.com/entry/20151105/1446658275 でそのうち言及したいと言った宿題部分。

*2:日本海軍が、渡洋爆撃を想定していて準備していたことを考慮すると、上海近郊の中国軍の航空部隊の状況は知りたい情報だったはずです