「日韓関係を悪化させようという意図は全く無い」とか言いながら「竹島の日」式典に内閣府政務官を派遣する日本政府と、1886年の日本の教科書が独島(竹島)を朝鮮領と書いていることをほとんど報じない日本メディア

前半は、この件。

竹島の日」式典に内閣府政務官を派遣へ 5年連続で

2017年2月21日15時31分
 政府は21日、島根県が22日に松江市で開催する竹島の日の記念式典に、政府代表として、領土問題を担当する務台俊介内閣府政務官を派遣すると発表した。政務官の派遣は第2次安倍政権の発足以降5年連続。
 松本純国家公安委員長は21日の記者会見で、日韓両国が領有権を主張する竹島について「歴史的事実に照らしても、国際法上も明らかに我が国固有の領土」と説明。「記念式典を含め、竹島問題に関する対応は我が国独自に行うものと受け止めている」と述べた。
 一方、韓国については、松本氏は「戦略的利益を共有する重要な隣国。日韓関係を悪化させようという意図は全く無い」と話した。

http://www.asahi.com/articles/ASK2P4V26K2PUTFK00K.html

独島(竹島)問題が本格化したのは、2005年に島根県議会(議席の3分の2が自民党)が「竹島の日」を制定(条例案提出は2月23日、成立が3月16日)し、高野紀元駐韓大使がソウルでの記者会見で「竹島は日本の領土」と発言したことが大きな契機となっています*1
当時の盧武鉉政権は、在任中は日本の歴史問題を提起しない旨を表明していましたが、日本側はそれにつけこむ形で歴史問題に深く関わる領土問題を煽ったわけです。その日本の動きに対抗して、盧武鉉大統領は、3月1日の3・1 独立運動の記念式典で日本に対して歴史問題を提起する演説を行います。

2005年2月23日の「竹島の日」条例案提出と高野大使の「竹島は日本の領土」発言から、3月1日の盧武鉉大統領による日本に対して歴史問題を提起する演説、そして、3月16日の「竹島の日」条例案成立。
この流れによって、独島(竹島)を巡る日韓間の領土問題が表面化し対立が激化していきました。

日本政府は当初「竹島の日」は地方自治体が決めたことで政府は無関係という態度を示しましたが、第二次安倍政権下の2013年からは政務官を派遣し日本政府としての関与を明確にしています。当然、この動きにも韓国側は反発しています。

慰安婦問題でもそうですが、安倍政権は韓国を見下し侮辱し圧力をかけて屈服させることを事実上の対韓外交の基本姿勢としています。これが時として安倍政権の対中包囲網政策と矛盾するのですが、安倍政権はイデオロギー的に対韓侮辱外交を改めることが出来ないようです。
一方で、このイデオロギーに満ちた対韓侮辱外交は、同じくイデオロギーに満ちた中国蔑視外交と共に、日本国内の韓国・朝鮮・中国に対する差別感情を効果的に煽り、日本社会の自尊心を麻薬的にくすぐり、その結果、安倍政権に対する高い支持率を実現させています。

ところで、松本純国家公安委員長が「日韓関係を悪化させようという意図は全く無い」とか言ってますけど、それをいうなら独島(竹島)に上陸した李明博大統領だって別に「日韓関係を悪化させようという意図」は無かったと思いますよ。
重要なのは「意図」ではなく、“日韓関係が悪化しても構わない”という認識の下で、「竹島の日」式典への政務官派遣も独島(竹島)への大統領上陸も行われた、ということなんですけどね。

1886年の日本の教科書における独島(竹島)の記述

後半はこの話。
日本語版ではほとんど報じられていないようでしたので、韓国語版の中央日報から以下の記事をひきました。
"독도는 한국땅" 19세기 일본 교과서 발견( 입력 2017.02.15 16:48 수정 2017.02.15 18:38 )


山・横尾山等、相並ビテ、全嶋皆山ナリ、其山際ニ大平山ノ鉄坑アリ、又西南ノ渓間ニ、壇鏡那知ノ両瀑布アリテ、直ニ海ニ注ギ、八尾川ハ、大峯ヨリ出デ、西郷港ニ入ル、○此嶋ノ四面ハ、大率岩礁断崖ニシテ、岬角モ亦多シ、白嶋鼻ハ、北角ニシテ、西ニ那久崎アリ、東南ニ西郷崎アリ、西郷港ハ、嶋中ノ良湾ナレバ、隠岐港ノ称アリ、湾口東南ニ向ヒテ、美保関ニ到ル舟路十八里アリ、此他ノ港泊ハ、南岸ニ加茂箕浦アリ、西岸ニ福浦アリ、
此国ハ日本海中西辺ノ絶嶋ニシテ、其西北海上ニ松嶋竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ欝陵嶋ト称ス近来定メテ其国ノ属嶋トナスト云フ、

前半は隠岐の地形に関する説明です。その後に隠岐は「此国ハ日本海中西辺ノ絶嶋」だという説明があり、その北西の海上に「松嶋竹嶋ノ両嶋」があり、最近、朝鮮の「属嶋」となったと書かれています。これは1886年の教科書の記載とのことですから、「竹島外一島」すなわち現在の鬱陵島と独島(竹島)を「本邦関係無之」と判断した1877年の太政官指令に沿った教科書であると読めます(参考:独島(竹島)に対する1877年時点における日本政府の認識)。

ちなみに「其西北海上ニ松嶋竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里」とありますが、太政官指令関連文書中では、磯竹嶋(別名・竹島、現・鬱陵島)は隠岐から北西へ120里*2、松島(現・独島(竹島))は隠岐から80里*3、となっています。この両島あわせて、隠岐から「相隔ル殆一百里」という表現で教科書は書かれているようですね。

基本的に1877年の太政官指令に付随する話であると思われ、1877年の時点で日本政府は独島(竹島)を日本領ではないと結論付けた、ということを理解している人にとっては新味のある話ではなさそうです。ですが、そうでない人にとっては、またもトリッキーな解釈を考案する必要があるでしょうね。

*1:竹島をめぐる日韓領土問題の近年の経緯―島根県の「竹島の日」制定から李明博韓国大統領の竹島上陸まで―」http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3751407_po_074102.pdf?contentNo=1

*2:隠岐国ノ乾位一百二拾里許」

*3:隠岐ヲ距ル八拾里許」