千田有紀‏氏のダブルスタンダードについて・2

支援があっても、「危険」は回避できない―監視付き面会交流は、子どもの利益か?」という記事にある千田有紀氏のダブルスタンダードの2つ目。

「離婚は家族の終わり」?

子どもを第三者機関による監視つきの面会交流をさせている田中道代さん(仮名)はいう。「(略)
離婚は家族の終わりです。そのことをまず受け入れなければ。そして裁判所は、誰も求めてもいなかった面会交流を押し付けるのを、やめて欲しいです。争いを激化させるだけだと思います。私たちのようなケースまで、「面会交流の申し立て数」に入れられていると思うと、冷ややかな気持ちになります。専門家もいる裁判所でもこうなのに、親子断絶防止法にあるような行政窓口での判断なんて、恐ろしいことになるんじゃないかと思います」。

https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20170324-00069061/

「離婚は家族の終わり」という同居親の言葉をそのまま引いていますが、これ自体がひどい自己矛盾を抱えています。

「離婚は家族の終わり」というなら、どうしてその同居親は子どもと一緒にいるのでしょうか?

“家族が終わった”のなら、親も子もそれこそ子どもを施設に預けるなりしてでも全員ばらばらになるはずですよね?なぜ、同居親と子どもは離婚後も“家族”でいられるのでしょうか?そこに矛盾があります。
答えは簡単です。「離婚は家族の終わり」ではないからです。

離婚は夫婦の終わりではありますが、家族の終わりではありません。そこをすり替え、あるいは誤認し、別居親を子どもから遠ざけるために「離婚は家族の終わり」という方便を使い、同居親と子どもは、「離婚は家族の終わり」という言葉に反して“家族”でい続けようとするわけです。
一言で言えば、自らを中心とする“家族”から別居親を排除するための言葉です。

ちなみに半世紀前までは離婚後の親権は父親が取ることが多かったのですが、特に戦前は離婚=母親の排除、でした。
家父長制下の「イエ」から母親が排除されたわけです。

戦前のイエ制度では子どもは「イエ」の所有物であり、「イエ」を独裁的に支配したのが戸主でした。戸主は女性でもなれましたが、多くの場合男性でした。だからこそ、離婚して「イエ」との縁が無くなった女性は排除され、母親としての地位を失い、子どもとの関係も失われたわけです。

千田氏らが主張しているのは結局のところ、戦前の「イエ」制度の戸主の地位に女性が納まることの主張でしかありません。

その意味で千田氏らは極めて保守的であり前時代的であり、それゆえに彼女らは先進国中に類例を見ない離婚後単独親権制に固執している、と言えるでしょう。