「人命軽視は風評被害? 零戦の評価の分かれ目「防弾板」、その実際のところとは」
こういう記事を見かけましてね。
残念ながらその「負の象徴」としての零戦の風聞のなかには、事実に基づかない風評被害ともいえる虚構も少なくないようです。
https://trafficnews.jp/post/73053/
そのなかでも「零戦は性能を重視したため、重い防弾板を排除した人命軽視の欠陥機である」という評価は最たるものでしょう。
関賢太郎氏は「零戦は性能を重視したため、重い防弾板を排除した人命軽視の欠陥機である」という評価を事実に基づかない風評被害だと主張しているわけですが、記事全体を読んでも、大した根拠も記載されてないんですよね。
強いて言えばこの部分。
確かに零戦は防弾板を搭載していませんでした。しかしこれはけっして性能を重視したためでも、人命軽視のためでもありません。ただ単に零戦の開発が始まった1937(昭和12)年の時点において、防弾板の必要性については世界的に認知度が低かっただけにすぎず、ほぼ同時期に開発された他国の戦闘機も、一部を除いてほとんど搭載していませんでした。
https://trafficnews.jp/post/73053/
なぜ1937年の時点に限定してるのか意味不明ですよね。
いやまあ、意味はありますね。1940年になってしまうと英独航空戦の戦訓から欧米の戦闘機には防弾板が付けられていくからです。日本軍が比較的優勢だった太平洋戦争初期(1941年〜1942年)においてゼロ戦に対抗した米軍機の一つがF4Fですが、これはイギリスにも供与されています。
英独航空戦の戦訓からイギリスはF4Fに防弾板と防弾タンクをつけるよう要求し、アメリカはこれに応じた上、アメリカ海軍が使うF4Fにも全て防弾板と防弾タンクをつけるよう通知を出しています。これが1941年8月8日です(RG72/470/69/20/3-4 BOX43, Aircraft Specification)。
米軍は太平洋戦争開戦前に戦闘機の防弾対策を行っているわけですが、日本は何もしないまま太平洋戦争に突入してます。1941年末という時点で見ると「防弾板の必要性については世界的に認知度が低かった」とは到底言えず、日本が遅れていたという他ないんですよね。
あと、関氏のこの認識もおかしいですね。
1944(昭和19)年頃になるとアメリカ側の反抗がはじまり、ようやく零戦にも防弾板が搭載されるようになりますが、もはやこの時点において戦争に勝つすべはなくなっており、防弾板の有無などは些細な差でしかありませんでした。
https://trafficnews.jp/post/73053/2/
アメリカの反抗って「1944(昭和19)年頃」ですか?日本軍がガダルカナル島で米軍に敗北し撤退したのは1943年2月ですよね?
ゼロ戦を圧倒できるF6Fが米空母に配備されるのは1943年からですが、それまでゼロ戦よりも劣るとみなされがちなF4Fは結構頑張ってます。F4Fはゼロ戦よりは強力なエンジンを積んでいるものの*1、防弾装備などで重く1対1ではゼロ戦に勝てないと言われていました。だからと言って米軍は防弾装備を外して軽くするとかせずに、ゼロ戦と2対1で戦えるように戦法で性能の不足を補ったわけです。
無線機の性能で劣る日本側が連携した戦法での対応が難しかったという点については、関氏が記事中で無線機の問題を挙げているのは正しいんですけどね。
ですが、こんな風に締めくくるようではお話にもなりません。
これを機に「零戦」という飛行機に染み付いてしまった事実に基づかないイメージをいったん取り払い、なぜ零戦は1万機も生産される大成功を収めたのか、その本当の姿について、あらためて見つめなおしてみるのはいかがでしょう。
https://trafficnews.jp/post/73053/3/
まあ、そもそも「零戦は性能を重視したため、重い防弾板を排除した人命軽視の欠陥機である」などという単純化した指摘をしている人はあまりいないと思うんですよね。人命軽視の思想は様々な側面から言えるのであって、防弾板の件はその一つだという文脈だと思うんですが。
1993年2月7日にNHKで放映された「[NHKスペシャル]ドキュメント太平洋戦争 第3集 エレクトロニクスが戦(いくさ)を制す 〜マリアナ・サイパン〜」ですが、これの書籍化されたものとして「太平洋戦争 日本の敗因〈3〉電子兵器「カミカゼ」を制す (角川文庫)」という本があります。
番組中でも出てくるエピソードですが、本の方から引用してみます。
(P141-144)
第六五三航空隊*2の兵曹長、原さんもゼロ戦の弱点について、みずからの戦闘経験から実感していた。
「ヘルキャットみたいな防御・防弾は、ゼロ戦には全然ありません。風防が一枚あるだけです。燃料タンクにも防弾装置がなく、むき出しのままです。ですから一度撃たれようものならパッパッと燃えて、すぐにバラバラになって落ちてしまうのです」
原さん以外にも、今回の取材で日本海軍の元パイロットの人たちに、飛行機の防御・防弾について聞いてみたが、ほとんどの人が、防御について充分な装備はなかったと答えている。また当時としてはそれがあたりまえのことであると、ほとんどの人が思っていたのである。
しかし、相次ぐゼロ戦の敗退から、実戦部隊でも戦闘機の防御・防弾を求める声が高くなり、戦訓として軍令部や航空本部に、その要望が提出される事態に及んだ。
防衛庁防衛研究所図書館に、これに関する戦訓が保管されている。実戦部隊から上げられた戦闘機に関するさまざまな要望を、横須賀海軍航空隊がまとめた報告書である。発行年月日は昭和一八年五月三日。報告書のタイトルは「戦訓ニ依ル戦闘機用法ノ研究」で、その扱いは軍極秘となっている。このなかに、次のような記述がある。
「戦闘機ト雖モ将来機ニ対シテハ防御ヲ考慮スルヲ要ス。空戦ニ於テ戦闘機ノ被撃墜機ノ大半ハ火災ニ依ルモノナリ。故ニ火災ヲ防止スルヲ得バ、現状ヲ以テシテ戦闘機ノ戦闘能力ハ驚異的ニ向上スルコト些カノ疑念ナキ所ニシテ、将来機ニ対シテハ可及的防御ヲ施ス如ク研究アリト認ム。
『戦闘機ノ防御ハ技術的ニハ不可能ナリ』ト頭カラ決メテカカリ研究ヲ怠ルコトアラバ、将来必ズ悔ヲ残スコトアルベシ。
防弾タンクハ絶対必要ナリ」
こうした部隊からの悲痛ともいえる声に対して、ようやく海軍でもその対策を講じる動きが出てきた。
この報告書を受け、軍令部主催でゼロ戦の改良に関する会議が開かれた。軍令部、航空本部、航空技術廠、三菱などゼロ戦の生産に関わる担当者、技術者が集まり、ゼロ戦の防御・防弾の是非が論議された。
三菱側の代表のひとりとして、曾根さんはこの会議に出席した。
「たしか昭和一八年の夏だったと思います。航空本部に呼ばれて会議に出席しました。会議では『現地から要望が出ているのだから研究すべきだ』という意見と、『そういうことをやる必要はない』というふたつの意見に分かれていました。私たちは民間人ですから意見を述べる立場ではなかったのですが、会議の席上、意見を求められたのです。もしゼロ戦に防御・防弾の装備を施した場合、性能についてどのような影響があるかと聞かれたのです。
そこで『当然その装備の分だけ重量が増えるので、空戦性能が落ちることになる』と答えました。
その時です。当時軍令部にいた源田実中佐が突然立ち上がって、「いや、みんなの意見を聞いているとどうも情けない。我が軍ではもっと操縦者が腕を磨いて、それでいい飛行機に乗って敵を攻撃したほうがいいんだ』と力説するのです。それから『大和魂で突貫しなくちゃいかん。どうも精神的なことも、みんなまだゆるんでいるようだ。ここはひとつそういう議論はやめて、うんと軽くていい飛行機を作ってもらって、我々は訓練を重ねて腕を磨き、この戦争を勝ち抜こうじゃないか』と一席、大演説をされたんです。そうしたらみんな黙ってしまって、それでもう会議は終わってしまったのです」
源田中佐は真珠湾攻撃の作戦を立案した航空参謀で、海軍の航空作戦に強い発言権をもっていた。源田中佐が発言した「大和魂」が象徴するように、日本の軍部を覆っていた不合理な精神主義がはばをきかせて、本質的な議論は行われなかったのである。
マリアナ沖海戦のおよそ一年前にこうした防御・防弾不要の決定がなされ、実戦部隊の苦戦はさらに続いて行った。そして、多くのベテランパイロットを失う結果となった。
横須賀航空隊の報告書が予言していたように、日本海軍はまさに「悔ヲ残スコト」になるのである。
米軍が1941年8月8日にF4Fの防弾化を命じたのに対し、日本軍は1943年の時点でもなお防弾不要だとしたわけです。日本軍が防御を軽視していたのは否定しようがありません。
もちろん、これを単純に人命軽視だとは言えないという声もありますが、NHKはそれも踏まえた上で、以下のように結論付けます。
(P146-147)
海軍航空技術廠の岸田さんは、日本の工業力の実情から見ても、ゼロ戦の設計が攻撃優先になったことは仕方のない選択だったという。
「国力全体をくらべれて、日本のほうが劣っているわけです。もう明らかに劣っている。それで対等に戦おうとすれば、どこかを犠牲にしなければなりません。攻撃の能力を高めようとすれば、防御の能力を犠牲にしなければいけないのです。ここは辛抱せざるをえないところでした」
岸田さんは満足なエンジンの開発ができなかった直接の原因は、良質の材料を作れなかったことにあると指摘している。
「防御というものにはものすごくお金がかかるのです。そうとうな財力がなければ防御にお金をかけるわけにはいかないのです。国家の戦略として、限られた資源をどこにどれだけ配分するかを常に考えなければいけない。私は、そういう意味で、ゼロ戦は非常によく考えられた飛行機だったと思います」
ゼロ戦の設計思想は、国力の無い日本の宿命であったのかもしれない。しかし、その設計思想によって犠牲にされた「防御」とは、つまるところ「人間の命」だった。たとえ工業力の差が「防御軽視」の選択を余儀なくさせたことが事実だとしても、その結果が「人命軽視」になったことはまちがいない。
ゼロ戦は空戦性能を追求した戦闘機である。それだけに、その性能を最大限発揮できる熟練したパイロットが必要だった。しかし、防御不足というみずからの弱点によって、ベテランパイロットの多くを失ってしまった。そしてその結果、攻撃力をも弱めていったのである。
マリアナ沖海戦は、「人命軽視」のつけがもたらした苦しい状況のなかでの戦いであった。
国力の制限から限られた資源を攻撃に回して防御を犠牲にした「犠牲にされた「防御」とは、つまるところ「人間の命」だった」わけです。これを「人命軽視」だと言っているわけです。
「零戦は性能を重視したため、重い防弾板を排除した人命軽視の欠陥機である」という主張ではなく、ゼロ戦は人命軽視を前提として攻撃性能を重視した戦闘機であり、“欠陥機”ではなく、“そういう戦闘機”なんですよ。