日本政府が独島(竹島)を日本領に編入した1905年1月の状況について

日本政府は日本が独島(竹島)を島根県編入した経緯を次のように説明しています。

竹島島根県編入

1.今日の竹島において,あしかの捕獲が本格的に行われるようになったのは,1900年代初期のことでした。しかし,間もなくあしか猟は過当競争の状態となったことから,島根県隠岐島民の中井養三郎は,その事業の安定を図るため,1904(明治37)年9月,内務・外務・農商務三大臣に対して「りやんこ島」(注)の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出ました。
(略)
2.中井の出願を受けた政府は,島根県の意見を聴取の上,竹島隠岐島庁の所管として差し支えないこと,「竹島」の名称が適当であることを確認しました。これをもって,1905(明治38)年1月,閣議決定によって同島を「隠岐島司ノ所管」と定めるとともに,「竹島」と命名し,この旨を内務大臣から島根県知事に伝えました。この閣議決定により,我が国は竹島を領有する意思を再確認しました。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/g_hennyu.html

まあ、この説明自体妙なところがいくつかあります*1が、その一つがこの日本政府の編入経緯の説明には一切、日露戦争についての言及が無いんですよね。

隠岐島民・中井養三郎が独島(竹島)の「領土編入及び10年間の貸し下げ」を願い出たのは1904年9月、独島(竹島)の「領土編入」の閣議決定は1905年1月28日、それを伝える島根県告示は1905年2月22日です。

1904年から1905年と言えば、日本史上の一大トピックである日露戦争があった年です。
日露戦争は1904年2月8日の日本軍による旅順港攻撃と日本軍による大韓帝国の仁川上陸から始まり、1905年9月5日のポーツマス条約調印によって終結します。
1904年2月9日、大韓帝国の仁川港外で日本艦隊とロシア艦隊が交戦し(仁川沖海戦)、翌1904年2月10日に日本はロシアに対して宣戦を布告しています。

大韓帝国は開戦前の1904年1月21日に日露開戦した場合の局外中立を宣言していましたが、日本はこれを無視して、仁川港外で交戦状態に入り、仁川に日本軍を上陸させ、一部の部隊を大韓帝国首都の漢城に進駐させ、そして1904年2月23日に日韓議定書を結ばせています。
日韓議定書の内容は、大韓帝国領土内を日本軍が自由に行動できるように便宜を図る義務を韓国に負わせ、日本軍の戦略上必要な場所を臨検収用することができるというもので、現在の在日米軍でさえここまで自由には振る舞えないくらいの内容です。

日本軍は続々と韓国に上陸し、1904年4月30日から5月1日にかけて日本軍第1軍(黒木為楨)が韓国領内から鴨緑江を渡河して中国領内に侵攻、待機していたロシア軍と交戦しています(鴨緑江会戦)。
鴨緑江会戦以前の1904年3月10日、日本軍は韓国駐箚軍の編制要領を定めています。
韓国駐箚軍の目的は「作戦軍ノ背後ニ於ケル韓国内ノ我陸軍々務ヲ統理シ兼テ我公使館、領事館及居留民ヲ保護スル為メ」*2というもので、単純に言えば、日本の主力軍がロシア軍と交戦している中国満州の後背地にあたる朝鮮半島を日本軍の補給路として警備するためです。
現役兵などの主力部隊はロシア軍と交戦していますので、後方の治安部隊である韓国駐箚軍に配備されたのは後備第2師団などの二線級の部隊です。編制当初の隷下部隊は「韓国に駐箚して大本営又は他の軍司令官若しくは独立師団長に隷属せざる諸隊」という余剰の兵員で構成されていました。軍事力として強力なものではありませんでしたが、警察力としては元の韓国駐箚憲兵隊に2月の増員と第12師団兵站監部中の憲兵を合わせて*3、329名となっています。
ちなみに後の1937年12月の南京事件の際に南京城にいた憲兵はわずか17名でした(南京戦区には10万人近い日本軍兵士がいた)。

日露戦争の主戦場が朝鮮半島から満州に移った後の1904年8月22日、日韓議定書に続く第1次日韓協約を韓国に結ばせ、大韓帝国政府の外交権を著しく制限しました。日本政府が推薦する外国人を外交顧問として、外交に関することは全てその者の意見に従え、とする内容です。

この第1次日韓協約の直前1904年8月10日、ロシア海軍旅順艦隊は黄海海戦で敗退し以後、旅順港に籠るようになります。また、日本近海で通商破壊戦を行なっていたロシア海軍ウラジオストク艦隊も8月14日の蔚山沖海戦で敗退し、日本軍は日本近海の制海権をおさえます。

隠岐島民・中井養三郎が独島(竹島)の「領土編入及び10年間の貸し下げ」を願い出たのは1904年9月ですから、日本近海の制海権が日本の手に帰した直後です。中井養三郎の出願自体、日露戦争の戦況を見ての動きと思われるタイミングです。
ちなみに日本海軍は韓国各所にロシア艦隊に備えた望楼を設置していますが、鬱陵島に望楼(松島東望楼、松島西望楼)が設置されたのは1904年9月2日です*4

そして、この出願から独島(竹島)の「領土編入」の閣議決定は1905年1月28日までに、さらに戦況は変わります。
ロシア海軍バルト海艦隊(バルチック艦隊)が極東に回航すること自体は早くからわかっていましたが、実際に出港したのは1904年10月です。この時点では目的地は旅順でした。東シナ海から黄海に入って旅順港に向かうとすれば、バルチック艦隊と独島(竹島)との接点は何ら生じなかったでしょう。
しかし、1904年12月4日、旅順要塞の一角である203高地が日本軍に占領され、旅順艦隊は観測射撃を受けるようになり、1905年1月1日に至って遂に旅順要塞は降伏します。

これによってバルチック艦隊は旅順に回航することができなくなり、目的地をウラジオストクに変更しました。ウラジオストクへの航路には対馬海峡ルート、津軽海峡ルート、宗谷海峡ルートの3つがありますが、独島(竹島)は対馬海峡ルート上に存在します。実際、日本海海戦中の第四合戦の現場は独島(竹島)の南方20~30kmの海域です*5

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※:第四合戦の上に「竹島」が記載されています。
そのようなタイミングで独島(竹島)の「領土編入」の閣議決定が行われました(1905年1月28日)。出願から閣議決定まで4か月というのは特段早くも遅くもなく、現実問題として独島(竹島)に軍事施設を建設できるわけでもないでしょうが、独島(竹島)の「領土編入」というのが、バルチック艦隊が迫る中、韓国駐箚軍によって大韓帝国の要所に日本軍の軍事施設が出来ている中で行われたというのは知っておくべきでしょう。

日本軍占領下の大韓帝国の様子

アーソン・グレブストの「悲劇の朝鮮―スウェーデン人ジャーナリストが目撃した李朝最期の真実」には1904年頃の状況として次のような記載があります。

-日本軍大尉の語る朝鮮と朝鮮人
(略)
 大尉は鴨緑江渡河のとき負った傷のため日本に送りかえされて治療を受け、そして今旅順にある本隊に戻るところだという。彼は何のためらいもなくロシア軍人の勇猛さには感嘆を示したが、その戦争発祥の舞台であり、今私たちが縦断している国の民族については別段いい言葉は吐かなかった。
 「亡国の運命に瀕した民族ですよ」
 と彼が言う。
 「将来性がなく、中国人以上に散々な民族です。一千年前に眠ったその場所にいまだにとどまっているんです。いっそうよくないので、その眠りからさめようとしないということです。自分の足で立ちあがろうとしないし、独立を望んでおりません。
 朝鮮人は独立がいやなんです。できればいろんな人に依存して責任回避したいんですよ。彼らの望むことといえば、ただなんの心配もなく平和に暮らすことなんです。独立という言葉は彼らにとっては恐怖を意味し、不信や無法と同じことです。
 仕事、悲しみ、喜びは分けあおうとしながらも収入は独り占めしようとする。自分の判断で動かざるをえなくなると、たぶんあわてふためいてどうしていいやら判らず、結局いちばん愚かな行動を取ってしまうでしょう」
 大尉は朝鮮人が勤労を軽んじているなどと、悪口を言いつづけた。
 「われわれ日本人は楽しく働いて、その結果について自負心をもちます。ところが朝鮮人とくると、生存の余地がなくなるという局面に至らないかぎり働こうとしません。
(略)

https://ameblo.jp/scopedog/entry-10115636803.html

旅中一緒になった日本軍大尉が朝鮮人を蔑視していることが書かれています。そして、この大尉はこのようなことを述べています。

 (日本軍大尉)「この鉄道は中国、ヨーロッパにつながる新しい起点となるでしょう。これが完成すれば、ベルリンやパリ、ローマからまっすぐ釜山まで来れるようになります。釜山と日本を連絡する蒸気船路をすでに計画中で、これに要する費用もさして難題ではありません。
 戦略的な面から見るときこの鉄道の価値は莫大なもので、管理権も完全にわれわれの手中にあります。全域にわが軍隊が散っており、わが警察が治安を守っております。かつては兵力を国境線まで輸送するのに何週間も掛かったが、今ではほぼ一日ですむんです。この輸送路が国内産業にいかなる影響を与えるかについては、いまさら長々と説明する必要もないでしょう。
(略)」

https://ameblo.jp/scopedog/entry-10115664265.html

「全域にわが軍隊が散っており、わが警察が治安を守っております」というのが、当時の大韓帝国の状況でした。そして、韓国駐箚軍の憲兵朝鮮人住民に対して苛酷な支配を科します。

(ドイツ領事)「(前略)
 白い十字架の立っているまさにこの場所は、三人の朝鮮人農夫が日本人に土地を強制没収され、その復讐として最近完成した鉄道の破壊を計画し、それが発覚し無残にも銃殺に処せられた場所です。
 この十字架三本に体を縛られた三人の哀れな<罪人>がここに立ち、でこぼこ道の向こうに日本の軍人と彼らの指揮官が整列していたのです。時間となって射撃命令が出され、軍人たちは五七発の銃弾を浴びせました。朝鮮人たちの体は蜂の巣のようになって死んでいきました。
 死体はここに六日間放っておかれました。死体の運搬は禁じられていたからです。やっと埋葬のため死体を移そうとしたときには、禿鷲と肉食鳥類に顔をついばまれてしまっていて、身元すら確認できないありさまでしたよ」
 私たちはしばし無言でつっ立ったまま、この悲劇の場所を眺めた。いろんな想念が頭を駆けめぐった。朝鮮で見る日本人の印象は、本国でのそれとあまりにもかけはなれていた。本国ではあらゆる物の外面が魅惑的な美しさをもっていて、その裏面を考えさせるような隙がなかった。ところがここではついに、その本当の姿があらわれたのだ。日本の残忍と冷酷を赤裸々にうかがい知ることができた。
 世の人びとが日本は西欧のように開化した国だと思っているとするなら、それはまちがいである。たしかに日本人は早い頭の回転と知恵を生かして大きな力をふるってはいるが、私たち西洋人の見るところ、彼らが西欧文明の到達地点にまでやってくるには、まだ数千マイルも走らねばならないだろう。

https://ameblo.jp/scopedog/entry-10115592625.html

日本軍の鉄道のために土地を強制没収された農民が土地を取り戻そうと鉄道の破壊を計画したもののそれが露見し、銃殺でハチの巣にされ、死体は6日間放置されたわけです。

日本が独島(竹島)の「領土編入」を閣議決定した時の大韓帝国は、このような状況でした。




*1:中井養三郎の願い出の内容の一つが独島(竹島)の「領土編入」である点が1つ。つまりそれ以前において隠岐島民にとって独島(竹島)は日本領ではないと認識されていたことを示唆しています。もう一つは、わざわざ日本政府が「竹島を領有する意思を再確認」する閣議決定を行った点。日本領であると認識していたのなら、閣議決定するまでもなく“日本領なので領土編入は不要”としておけばよかったはずです。要するに当時の日本政府にとっても独島(竹島)が日本領ではないと認識していたことを示唆しています。

*2:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06040146400、「明治37 8年戦役業務詳報 附録 軍務局軍事課」(防衛省防衛研究所)」

*3:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06040146400、「明治37 8年戦役業務詳報 附録 軍務局軍事課」(防衛省防衛研究所)」

*4:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110109900、「極秘 明治37.8年海戦史 第4部 防備及ひ運輸通信 巻4」(防衛省防衛研究所)」P43

*5:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110096100、「極秘 明治37.8年海戦史 第2部 戦紀 巻2及備考文書付表付図」(防衛省防衛研究所)」