どちらも選択的懐疑主義だと思う

南京事件を否定するつもりはないけど、主張している連中が反日だから気に入らない”
とか言うような人を歴史修正主義者に含めることについて、私はおかしいとは思いません。

同じように
“離婚後共同親権に反対するつもりはないけど、主張している連中が極右だから気に入らない”
とか言うような人を、私は離婚後共同親権反対派に含めています。


南京事件を否定するつもりはなく、疑問点があるだけ”とか“証拠が不足している”とかともよく聞きますけど、その疑問点は、大規模な虐殺・暴行・略奪・強姦の史実を否定しうる重大な疑問でもなんでもない瑣末なものばかりだったり、必要とする“証拠”が他のほとんどの歴史的事実が満たすこともできない非現実的なレベルに設定されていたり、とかそんなのも否定論者の一種ですよね。

同様に
“離婚後共同親権に反対するつもりはないけど、日本に導入するのには問題がある”とか“予算が不十分”とかもよく聞きますけど、その問題点は、単独親権を維持しなければ解消できないものではなかったり、必要とする“予算”が他の離婚後共同親権導入国が満たしてもいない非現実的なレベルに設定されていたり、とかそんなのも離婚後共同親権反対派の一種ですね。


本気で“疑問点はあるが南京事件を否定するつもりはない”のなら、積極的に自らの南京事件認識を示し、その上でどのような点で疑問があるのかを示せばいいのですが、否定論者はそういうことはせず、“疑問点”や“問題”ばかり殊更に主張する。

同様に“解消すべき問題はあるが離婚後共同親権に反対するつもりはない”のなら、積極的にあるべき離婚後共同親権の認識を示し、その上でどのような問題があり、どのように解消されるべきかを示せばいいはずです。
そのようなことをせず、“疑問点”や“問題”ばかり殊更に主張するのは、まあ離婚後共同親権反対派と見て良いでしょう。