通州事件の政治利用の始まり

通州事件に関する情報が通州外に届いたのは、7月29日正午ごろ日本軍偵察機による報告が最初と見られます。しかし、29日中は航空機のみの情勢把握が行われただけで、ある程度の詳細が知れるのは翌30日午前1時半ころの通州城内の日本軍守備隊との通信によってです。
この通信も無線通信で情報量には限界があり、そもそも日本軍守備隊が兵営から出られない状況でしたから、居留民の被害についてはほとんどわかりませんでした。
居留民被害について明らかになるのは7月30日の夜明け以降で、通州外部からの救援が到着するのは30日午後4時になってからです。
報道機関が被害状況を現地取材したのは8月2日以降で、取材結果が報道されたのは8月4日以降です*1

通州事件の詳細がまだ報道されていなかった8月2日、以下のような通信が上海の日本大使館付武官から発せられました。

通州事件其他に関する報道の件
【 レファレンスコード 】 C04120102000
秘(A作)
1937年8月2日01:00発07:45着
第100号
次官次長宛

上海大使館附武官

支那側は数日前より日本軍が無辜の支那民衆及外国人の殺害し或は殺傷しある旨の宣伝を開始しあるに鑑み之が反駁に就て当地に於ても通州事件の如きは迅速に報道せしむる要あるべく社会部記者等をして十二分に活動せしめられ度重複を厭わず重て切望す

当時、天津に対する爆撃などで日本軍の行為は中国側から非難されていました。これに対抗するため反中国プロパガンダとして、通州事件を利用するよう進言する内容です。
ネット上では、通州虐殺を隠すために中国側が南京大虐殺を捏造したという主張もありますが、実際にはそれ以前の日本の問題行為を隠すために日本側が通州事件を殊更誇張して報道したというのが実態でした。
一方で、居留民を守るための守備隊が居留民を守ることが全く出来なかった上に、冀東保安隊を取り逃がすという失態、日本にとって友軍のはずの冀東保安隊の反乱を未然に防ぐこともできなかったという体たらくに対して現地軍は当然、恥ずべき事件と考え当初は隠蔽を目論んでいます。

信夫信三郎*2氏「聖断の歴史学」より 
 8 通州事件(四)
 通州事件は、飼犬に手を噛まれたような事件であり、不幸な事件であるとともに不名誉な事件であった。松村秀逸少佐は、陸軍省の新聞班に所属し、盧溝橋事件が起るとともに天津へ出張してきていたが、通州事件の報に接した支那派遣軍司令部の狼狽ぶりをしるした―

 その報、一度天津に伝わるや、司令部は狼狽した。私は、幕僚の首脳者が集っている席上に呼ばれて、<この事件は、新聞にでないようにしてくれ>との相談を受けた。
 「それは駄目だ。通州は北京に近く、各国人監視のなかに行われたこの残劇(ママ)が、わからぬ筈はない。もう租界の無線にのって、世界中に拡まっていますヨ」
 「君は、わざわざ東京の新聞班から、やってきたんじゃないか。それ位の事が出来ないのか」
 「新聞班から来たから出来ないのだ。この事件をかくせなどと言われるなら、常識を疑わざるを得ない」
 あとは、売言葉に買言葉で激論になった。私は、まだ少佐だったし、相手は大、中佐の参謀連中だった。あまり馬鹿気たことを言うので、こちらも少々腹が立ち、配下の保安隊が叛乱したので、妙に責任逃れに汲々たる口吻であるのが癪にさわり、上官相手に激越な口調になったのかもしれない。
 激論の最中に、千葉の歩兵学校から着任されて間もなかった矢野参謀副長が、すっくと立上がって<よし、議論はわかった。事ここに至っては、かくすななどと(ママ)姑息なことは、やらない方がよかろう。発表するより仕方がないだろう。保安隊に対して天津軍の指導宜しきを得なかった事は、天子様に御詫しなければならない>と言って、東の方を向いて御辞儀をされた。この発言と処作で、一座はしんとした。
 <では発表します>と言って、私が部屋を出ようとすると、この発表を好ましく思っておらなかった橋本参謀長(秀信中佐)は「保安隊とせずに中国人の部隊にしてくれ」との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私は、ものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った。
 
―かくして通州事件はあかるみに出たが、新聞は逆に「地獄絵巻」を書き立てて日本の読者を煽りたてた。
(P116〜P117)

http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu1.html


この現地軍の懸念はもっともで、第三国から見ればまさに「飼犬に手を噛まれたような事件」でしかなく、失笑を買うことはあっても同情を買うことはできませんでした。通州事件発生時には既に日本軍は天津や北平を攻撃していたわけですから、通州事件の報復として戦争が起こったと見えるわけもありません。
しかし、元々中国人に対して反感・蔑視を抱いていた日本人にとっては、中国撃つべし、と叫ぶ絶好の口実となり、メディアもそれを煽り立てたのです。

*1:7月30日に号外が出ていますが、この時点では噂以上の情報はありません。

*2:信夫清三郎の誤記と思われます。