姜根福氏の南京事件

姜根福氏は南京事件当時9歳、父母と6人兄弟の8人家族*1で、貧乏な水上生活者でした。
南京事件当時、姜氏一家は下関近くの土手に隠れていました。
最初に母親と数え年3歳の弟が、10人ほどの日本兵に殺されます。弟の泣き声に気付いた日本兵が母親を見つけ強姦しようとし、抵抗したため母子もろともに殺されたのです。
母親の死後2〜3日後、今度は父親日本兵に見つかり連れ去られます。その後父親は帰ってきませんでした。さらに2日後、13歳の姉が日本兵に見つかり、強姦されそうになり抵抗したため、やはり斬殺されました。
残された姜氏兄弟ら4人(数え11歳〜5歳)は、その後、中国人の治安維持会のメンバーに見つかり、11歳の姉が売られ、5歳の弟が売られ、姜氏と7歳の弟だけが残され、乞食として生きざるを得なくなりました。

姜根福氏にとっての南京事件は、父母と4人の兄弟を失って終結したのです。
その後、姜根福氏ら2人は港湾労働者の姜書文と楊国真の養子として引き取られましたが、1941年ごろ姜根福氏と養父の姜書文氏は日本軍に徴用され埠頭での運搬作業をさせられ、日本の敗戦まで続きました。
国民党軍が戻ってきても、姜氏らの貧乏生活は変らず、1949年4月23日中共軍が南京を解放した後、連れ去られた姉と弟の消息がわかりました。

売られた11歳の姉は、1951年に雲南省貴州で生きていることがわかり、1956年3人の子どもと共に国費で南京にやってきて姜氏とほぼ20年ぶりに再会しました。
同じく売られた5歳の弟も、1951年南京の鋼鉄工場で働いていることがわかりました。

8人家族のうち、4人は生き残ることはできましたが、4人は二度と帰ってきませんでした。
姜根福氏は本多勝一氏の取材に次のように答えています*2

(略)中国で犯したかつての日本の罪悪は、軍国主義の罪悪であって、日本人民の罪ではありません。毛主席の教えに従って、私たちは現在も日本の人民と反動政府を見分けています。その反動政府の中でも、政策の決定者と従わされている人びととは区別しなければなりません。私たちがこうした過去の体験をあなたにお話ししたのは、日本人民に対する中国人民の友誼のあらわれでもあるのです。

このような「友誼のあらわれ」を南京事件否定論の根拠に使う河村たかし名古屋市長は下衆としか言いようがありません。

*1:この他に売られた姉がいる

*2:中国の旅 (朝日文庫)」P262