海南島・仏印の日本軍支配に関する記述

慰安婦たちの太平洋戦争」(山田盟子、光人社、1992/2/26、第7刷)より少しの紹介です。

(P126-127)
 海南島にはそれら海軍慰安所えびすなどのほかに、台湾慰安婦を十五、六人おいた陸軍の「蓬莱」慰安所などもあったし、松鶴園という慰安所もあった。なかにはからゆきの経営する食堂やあいまい屋もあった。
 からゆきは新会県だけでも、二十数名も残存し、過去を知られるのをきらって、身をかくしているのから、なかには軍の性業に参加するのもいた。
 海南島は占拠の歴史からして、海軍特務部が肩をそびやかしていた。したがって、陸軍の憲兵もここでは影が多少うすかった。
 海南島トンキン湾をへだてて仏印も近かった。日本軍が入りこんだことの仏印人は、“救星”と皇軍を呼んだほどなのに、民衆の苦しみは昔と変わらなかった。地租は一ヘクタールでモミ九百キロで、半分を地主が奪った。水牛の借り賃も一頭でモミ二百キロであった。もっとむごいのは、子供にも病人にも割り当てられる人頭税で、モミ二十五キロを一人あてに課してあった。
 海南島には石緑山鉱山があった。南支第二十三軍配属の憲兵からいわせると、ここの鉱山は海軍設営隊の下を西松組が請けていたという。
 昭和十七年八月、入港船取締中に、秀英沖で不審な輸送船を鈴木憲兵はみかけた。怪しげな者が七、八人、甲板から手を振っている姿に切迫感があり、臨検すると、船倉に折り重なるように押し込められた台湾人がいた。彼らは、「海南島の軍属募集の口車に乗ったこと、賃は台湾の二倍という条件で乗船したところ、高雄港をでたとたん、西松組の土工人足とわかったこと、さらに虐待に近い待遇であり、契約を解いて帰りたいというと、体罰以上の制裁を加えてきた」という。
 西松組と海軍特務部はかかわりがあり、二ヶ月して石緑鉱山で暴動が起こって、多数の台湾人が逃亡した。逃亡者はマラリアと飢えで死に、逮捕された者は懲罰で死んだ。領事館警察の船舶係主任榎本巡査部長は、
「西松組はひどい。台湾人の死亡者名簿と称する分厚い書類をもってくるからな」
 と、親指と人差し指でその厚さを示した。西松組は内地でも五百人以上の山東省の苦力を用いて、広島と新潟の信濃川の発電工事をやっていた。
「特務部が黙認しているから、領警で取り締まりなんかできるものでないよ」
 と、彼は憲兵の鈴木にもらした。海南島に一番近いワアンニン省アムファ炭鉱は、一日十時間働いて六スーの約六円であった*1。仏の植民地主義下の労務者と、日本はたいして変わりのないあてがいをしたといえる。

*1:6スー=6円は間違いか、少なくとも当時の円ではない。1スーは1フランの20分の1、1920年頃の1フランは0.15円であることから、6スーは4.5銭相当。1ヶ月30日働いても1.35円にしかならない薄給。http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102809.php