金福童氏の場合

金福童氏の生年は書類上割と正確に残っていて、1945年8月時点で19歳であったことが当時スマトラにあった第10陸軍病院の記録にあります*1。したがって、これを満年齢とすると誕生日は1925年9月〜1926年8月となります。講演時の資料では1926年生まれとのこと。もっとも本人が当時、自分の年齢を満年齢で自覚していたとは限りませんので、1〜2年のゆらぎはあり得ます*2

金福童氏が連行され日本軍の慰安婦とされたのは1939年乃至1940年で13〜15歳の頃です。最初に連行された広東は1938年10月に日本軍によって攻略された華南の要衝です。広東攻略後の1938年11月から1939年3月にかけて台湾経由で多くの慰安婦が華南に送られた記録が残っています。「第二一軍司令部「戦時旬報(後方関係)」一九三九年四月一一〜二〇日」には1939年4月時点で第21軍管轄下に約1000人の慰安婦がいたと記録されています*3。また、南寧作戦が開始される直前の1939年10月から12月にかけて300人程度の慰安婦が送られています。1940年6月時点で南寧付近に展開した第21軍の一部約5万人の兵士に対して慰安婦は約360人いました*4
金福童氏が広東に送られた1939年乃至1940年の時期は、まさに広東付近に展開した日本軍第21軍が大量に慰安婦を欲した時期に符号します。
なお、1938年11月から1940年1月にかけて台湾から華南へ送られた慰安婦1869人*5のうち998人が日本人で朝鮮人は607人です*6。当時台湾に在住していた朝鮮人はほとんどいなかったことを考慮すると、これら朝鮮人慰安婦の多くは朝鮮から連行され台湾を経由して華南へ送られたことがわかります。

さてその後、金福童氏はマレーシア、インドネシアシンガポールを転々としますが時期的には1942年以降になります。しかし、中国占領地から南方占領地に渡航するには原則として軍関係者以外は外務省による渡航許可が必要でした。しかしながら売春目的渡航国際法上問題があるため、外務省は慰安婦に対する旅券の発行を拒否し、軍が証明書を発行し軍用船を利用するよう求めます*7。このため、軍は1942年4月23日に出した陸亜密第1283号の中で陸軍が証明書を発行する「その他の者」に慰安婦を分類していますが、明瞭さを欠いたため、1942年11月12日に広東方面の第23軍から陸軍省に「軍酒保要員並ニ慰安婦ニ対スル正式渡航手続ヲ如何ニスルヤ」と問い合わせられています。11月18日に第23軍に対し陸亜密第1283号内「その他の者」として扱えと指示を出しています*8
この第23軍と陸軍省とのやり取りは、第23軍が管轄する広東が南方軍向けの慰安婦送出元の一つであったことを示しており、広東で慰安婦として売春を強要された金福童氏もまた、広東から軍の証明書を発行されて南方に送られたことを示しています。
なお1942年初頭の外務省と陸軍の間のやり取りは慰安婦の南方派遣の違法性を日本政府自身が自覚していた証左でもあります。
金福童氏は1942年当時16〜17歳で、売春目的で渡航させた場合国際法に抵触する年齢でした。

南方に送られた後も売春を強要された金福童氏は1945年8月の敗戦時にスマトラの第10陸軍病院の傭人として登録されます。日本軍が専用売春婦を連れ回していたという体裁の悪い事実を隠蔽するためと言われますが、実態としては公文書上で「その他の者」扱いされたように軍属とも民間人とも言えない曖昧さが降伏にあたって問題となることを避けるための官僚的な処理だったように思います*9
敗戦時、金福童氏は19歳であり足掛け6〜7年にわたって慰安婦としての売春を強いられたことになります。

大日本帝国は1945年8月に敗北しましたが南方に展開された多数の軍民はすぐに日本に帰国できたわけではありません。南方方面は比較的順調に復員が進みましたが、それでも1948年頃までかかっています*10。金福童氏が22歳まで拉致されていたというのは復員までの期間を含めれば本人の実感として間違ったものではありません。
1939年乃至1940年に連行されてから8年余り売春を強要され続け帰郷できなかったという悪しき記憶に対し、最後の2〜3年は慰安婦として売春を強要されていない、などと加害国の人間が言うべきではないでしょう。8年間拉致された責任の多くは日本軍・政府にあるのですから。

2013年現在、金福童氏は87〜88歳になります。

追記(2015/2/26)

2015年2月25日(水)「資料から読み解く慰安婦問題」(探究モード)」で梁澄子氏が詳しく説明されています。

*1:http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper99.htm、及び朝鮮日報「元日本軍慰安婦・金福童さんの実名記録が発見」(2005/01/11 20:23 )

*2:当時は戸籍自体が正確なものではなく出生直後に届け出ず、夭逝せずにある程度育ってから届け出ることが日本でも少なくありませんでした。そのため戸籍の記載自体、事実と異なる場合もあり、本人が自覚している年齢と戸籍上の年齢が合致しないことも珍しくありませんでした。

*3:http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/taiwan/taiwan3.htm

*4:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13031898700、鉄寧派憲警445号 軍慰安所に関する件報告(通牒) 森川史料(防衛省防衛研究所)」

*5:記録の残っているもののみ集計

*6:http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/taiwan/taiwan_table14.htm

*7:南洋方面占領地に於ける慰安所開設に関する件[外務大臣](昭17・1・14)、http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130310/1362930442

*8:陸亜密第11111号、http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130310/1362930442

*9:http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper99.htm「日本軍が慰安所を持っていたこと、ならびに慰安婦の存在を隠蔽しようとしたのではないかと考えられる。もう一つは、連合軍に武装解除される際に軍人軍属の登録がおこなわれるだろうが、その際に日本人「慰安婦」の扱いに困り、看護婦であれば軍属にできるので(事実、留守名簿に記載されている)、そのように登録して一緒に帰国する便を図ったのではないかという推測も可能かもしれない」

*10:http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/1208/00204161208009c.html