秘密保護法のふしぎ

各界から強い反対の声が上げっているようですが、安倍政権を参院選で勝たせてしまった以上、多少の手直しがあったとしても近日中の成立は避けられないでしょうね。ABEという名の悪魔と契約してしまった有権者が受ける報いです、残念ながら。
当分の間、おそらく短くとも四半世紀の間は自民党政権が続くでしょうから、立法府が自ら無効化することはまず考えられません。僅かに期待できるのは司法に違憲立法であると判断してもらうことくらいですが、竜巻の中で線香花火を最後までやるようなもので難易度高すぎでしょう。


さて、ひとつ不思議な点があります。

  • 特定秘密を漏洩させようとして逮捕され裁判になった場合、検察はどうやって特定秘密を漏洩させようとしたと証明するの?

一般に公開される裁判で、これが特定秘密です、と提示するわけにはいかないはずです。弁護側は当然にアクセスしようとした情報の中に特定秘密があることの立証を求めると思いますが、裁判所がこれをどう判断するのか。まあ、いつも通り検察に阿るんでしょうけど。

多分、秘密保護法違反で実刑を受ける事件は起きない

法律の存在だけで公務員や記者たちに対し充分すぎる威圧になりますし、政治・外交の研究者達に対しても強い圧力になるでしょう。刑事罰を受けるリスクを犯してまで取材・研究を進めたいと望む人は少ないでしょうから、記者や研究者は与党政治家に擦り寄って仲介してもらうようになるでしょうね。その結果、与党に都合の悪い情報は出てこなくなると。

警察や検察は、秘密保護法違反容疑で逮捕・拘留はするでしょうが、立件は避けるでしょうね。立件する際は、別の罪状を用意するでしょう。不正アクセス防止法でもストーカー規制法でも立件するのに容易な罪状は、一度逮捕して拘留すればいくらでもひねり出せます。

秘密保護法に関する話題で比較されることが多い稀代の悪法と呼ばれる治安維持法ですが、日本国内において治安維持法によって死刑になった事例はおろか、無期懲役にされた事例もありません。
ですが、治安維持法が悪法であったことは誰でも知っています。治安維持法が悪法であったメカニズムは、治安維持法そのものの適用ではなく、治安維持法を中心としたシステムにあります。奥平康弘氏の「治安維持法小史」に以下の記述がありますので最後に紹介しておきます。これから訪れる暗黒時代に向けて心の準備をしておくべきかもしれませんよ。

(P2-5)
 このように「治安維持法」という名の法律を対象にするとしても、一九二五年にできあがった法律だけで片がつくわけではない。日本の歴史の変化に応じて、「治安維持法」という名の法律も変ったのであって、この変わりぐあいを理解しないわけにいかない。
 しかもこのばあい、注意を要するのは、名前にだけ捕らわれてはならないことである。一九三六(昭和一一)年に「思想犯保護観察法」という名の法律が成立した。これは名からおせば「治安維持法」と別個のようであるが、内容上も形式上も「治安維持法」と一体のものであった。くわしくは、これもあとにゆずるが、一九三四、三五(昭和九、一〇)年に「治安維持法」の全面改正が試みられたが、いろいろな事情で政府側の改正案が成立しなかった。そこで政府はさしあたり全面改正で目論まれた一部「第四章 保護観察」案を手直しして、「思想犯保護観察法」に仕立て上げたのである。この法律は、もっぱら「治安維持法ノ罪ヲ犯シタル者」に対する特別な処遇を定めたものであるから、内容からいっても治安維持法という仕組みの部品のようなものであった。
 (略)世間では「治安維持法」というと、一九二五年にそういう名の法律ができあがったとたんに、一本の線路がしかれ、ただまっしぐらに悪法たる性格を自己暴露し自己増殖してゆくとおもいがちであるが、それは、真実を反映していない。(略)
 いま「実質的な意味での治安維持法」といういい方をしたが、これは意味深長である。「治安維持法」というばあい、そういう名前の法律を指すことには、だれも異論がないが、さて、それ以上になにを指すかという段になると、かならずしもはっきりしない。たとえばこういうことがある。最近、ある新聞の投書欄(『朝日新聞』、一九七六、二、四「声」欄)に、戦前の体験を語るつぎのような文章が載っていた。七一歳の投書者はいう。「私も昭和八年四月末、当時の東京・深川区牡丹町の家で(夫と)長男と親子三人で寝ているところへ、カギをかけた玄関の戸を外からはずして泥ぐつのまま入ってきた三人の男に有無を言わせず洲崎署に連行された。私たちは消費組合員だった。夫は別の署に移され、長男は三日目に外に預けた」。戦前には、このように逮捕状もなく、理由もつげずに、警察は市民の身体の自由を平気で奪ったものである。この投書者も自分たちがなんで逮捕されたのかわからなかった。そこで、ひそかに警官のひとりに懇願して、こっそりと事故記録なるものを見せてもらったところ、そこには自分たちのことに関して「木場町三丁目付近をはい徊中、住所不定をもって留置す、長男は迷子で保護、と毛筆で書いてあり、署長の印が押してあった」という。投書者はこうして「(共産)党員でもない私たちの所に住居侵害をしておきながら被害者を浮浪人として留置するという治安維持法の姿」を指摘し糾弾している。
 昭和八(一九三三)年というと、治安維持法の適用範囲が拡大されて、共産党のみならず各種の「外郭団体」にも弾圧の手がおよぶようになる時期であった。たんに消費組合運動に従事したというだけで、身柄の拘束をうけ組織関係のあれこれを尋問されるということは、大いにありそうなことである。理不尽な警察侵害に対する投稿者の正当な怒りに、現在のわれわれはだれしも同調せざるをえない。
 ただ、そのような抗議の正当性とは別に―重箱の隅をつっつくなといわれそうだが―投書者の誤解を摘示適時しておきたい。というのは、投書者本人は「浮浪人として留置するという治安維持法」が、自分らに対して適用されたと理解しているらしいが、じつは、治安維持法には浮浪人を留置させるむねの規定はない。投書に出てくる事故記録の記載が正確なものであるとすれば、このご夫妻に適用されたのは、現在の軽犯罪法に該当スル警察犯処罰令(明治四一年内務省令一六号)であったにちがいない。警察犯処罰令には「一定ノ住居又ハ生業ナクシテ諸方ニ徘徊スル者」(一条三号)を三〇日未満の拘留に処すると定めていた。これを浮浪罪または徘徊罪といった。投書者らは、親子三人、自分の家で平穏に寝ていたというのだから、本当は浮浪罪・徘徊罪と問う余地などありえない。ありえないことが、しかし、戦前の日本では、左翼取締りとの関係では、大いにあったのである。このばあい、警察犯処罰令は、全くのいいがかりにすぎなかった。それいにしても、ここでは治安維持法ではなく、警察犯処罰令が権力行使の口実になっていたようである。
 といっても、投書者の誤解は無理もないところがあるし、ある面では誤解といい切るのは正しくないかもしれない。警察犯処罰令の浮浪罪(徘徊罪)は、行政執行法(明治三三年法八四号)の予防検束などとともに、その運用上、治安維持法と一体のものたる性格を与えられたからである。浮浪罪(徘徊罪)は―予防検束とともに―本来の「治安維持法」を小規模な形で代位するミニ治安維持法治安維持法のミニ版であった、といえる。このこと、つまり、浮浪罪とか予防検束とか、それ自体は治安維持法と関係なく成立した法制度が、思想取締り・集団規制の道具の一環として治安維持法を補完し、これに代位するものとしてはたらくようになったところに、戦前日本の治安法体系の特徴がある。この種のミニ版を伴って、全体としての治安維持法(システム)が構成されたという点が、治安維持法の特色であったともいえよう。