1993年2月25日に発刊された「強制的に連行された朝鮮人従軍慰安婦達」における慰安婦の実像

韓国挺身隊問題対策協議会と挺身隊研究会は1993年2月に元慰安婦らの証言をまとめて、日本軍慰安婦の実像について記載した証言集を発行しています。前年の1992年1月に日本軍の関与を証明する文書が発見されて、日本政府はそれまで否定していた「国の関与」をようやく認めるに至りました。国の関与を認めたことにより、国の管理下で売春強要が行なわれたことが明らかになり、当然に日本政府の責任が生じるわけですが、日本の右翼・歴史修正主義者らは、日本軍を正当化すべく直ちに反撃を開始します。
それが吉田証言を捏造扱いすることで、慰安婦問題全体を矮小化することでした。その結果、本来、慰安婦問題の中のごく一部でしかなかった連行時の直接的な暴力の有無のみが焦点化されるようになります。秦郁彦氏が編み出した「狭義の強制連行」という詐術が、安倍政権の言う「慰安婦の強制連行はなかった」へと昇華することになったわけです。

さて、実際に支援団体が当初問題視されていたのは、直接的な暴力による連行だけだったのか、というとそんなことはありません。1993年2月という加藤談話と河野談話の間の時期に出された「強制的に連行された朝鮮人従軍慰安婦達」に記された内容はそれをよく物語っています。この証言集の解説部分を以下に引用しますので、果たして問題視されているのが、直接的な暴力による連行だけか各々判断してください。

解説:軍慰安婦の実像

チョン・ジンソン

調査経緯

 私たちの辛い歴史である植民地の時期に関する研究が未だ発展の初期段階にある状況で、この時期に我が民族が被った受難に対する自覚が新しく社会の底辺からなされている。このような状況で軍慰安婦の問題は去る何年間、社会運動の次元で非常に深刻に提起されてきた。被害者に対する賠償に焦点にあてられている原爆被害者、軍人、軍属等の別の植民地時期の被害問題とは異なり、現段階において軍慰安婦問題の主眼は先ず真相を明らかにすることである。それほどこの問題は、今まで徹底して歴史の影の中に埋もれていたのである。
 去る何年間、被害者の証言と、日本と米国等で発掘された「極秘」軍文書を通じ軍慰安婦の問題は次第にその姿を表してきているが、今までの証言と文書資料は実像を明らかにするには十分ではない。大部分の文書資料が日本軍と政府によって作られたものであるので、我が国の立場からこの問題に接近し得る可能で優先的な課題は被害者の経験をよみがえらせることである。彼らの生々しい体験談は、既存の文書資料から明らかになった事実を再確認することに止まるのではなく、今まで明らかにされていない歴史的事実を明らかにすることにより、新しい文書資料の発掘を先導し得るであろう。
 このような趣旨から挺身隊研究会(1990年7月結成)は、去る1992年7月から韓国挺身隊問題対策協議会(1990年11月創立。以下挺対協と略称する)に申告された元慰安婦に対する調査に着手した。挺対協に申告した元慰安婦は、1992年12月末現在で生存者55名、死亡者55名であった。挺身隊研究会の会員10余名は、去る4月から連絡が可能な元慰安婦40名に接触し始めた。調査過程で、自分の経験を話すのを嫌がる人、証言がひどくつじつまが合わないとか話の前後が合わずに調査が難しく思える人たちを除外していきながら、最終的に調査を完成させたのがこの本に載せられた19名の証言である。生存している元慰安婦高齢で、これまでの逆境によって自ずと苦難の多くの部分が僅かな記憶として残っているのみである。彼らからより明確な記憶を引き出すため、挺身隊研究会員は日本の軍隊史、戦争史、我々の植民地史に関する史料を参考とし、これまで発掘、報告された慰安婦関係の軍文書資料及び証言を細密に検討しつつ元慰安婦に対する面接を進めた。このように証言内容に正確を期する努力として研究会員は自分が分担した各々の元慰安婦を10回以上面接する過程を経た。
 これまで我が国のみならず日本でも慰安婦の経験に関する多くの断片的な報告が出版されたが、それらの中には調査の水準が高いものがあるかと思えばその信憑性が問題となるものもあった。挺身隊研究会はこのような状況を勘案し、信憑性に自信の持てるまで何度も続いて再面接を実施したのである。調査の精度については読者諸賢の質正を望むところであるが、我々はこの苦痛の経験を調査するにおいて感情を押さえ、客観的な姿勢を堅持すべく努力したという点を明らかにしておきたいと思う。

慰安婦の出身

 8万から20万と推定される慰安婦の中、絶対多数を占めるとされている朝鮮人慰安婦の連行は、どのような層に対して行われたのか?
 過程の経済的背景:大部分、極く小規模の自作農家や小作農で育ったか、または農村の商店、雑役等の仕事をする両親から生まれた。多少の耕作地を持った比較的事情が良かったケースが2名いるのを除き、大部分は家庭が非常に貧しかった。慰安婦として連行される前、女中奉公をした人が5名にもなり、その他にも工場に通ったり、親戚の家に頼って暮らしていた場合、両親によって売られた場合等、彼女らの状況は悲惨であった。
 学歴:本調査の慰安婦の学力は、当時の朝鮮全体の学力と大きな差があるわけではないが、全般的に非常に低い水準である。全く教育を受けられなかった者4名、教会等で運営する夜学で勉強した経験がある者が4名であり、いくらかの間でも普通学校に通ったことがある者が10名である。しかし普通学校を卒業した者は一人もいない。例外的なこととして、国民学校高等科1学年在学中に勤労挺身隊に動員された後に日本で慰安婦に引っ張っていかれた場合があるのみである。
 次に見るように、日本政府は主に詐欺を含む強制動員の方法を使って慰安婦を徴集したので、これによって起こる社会的物議を最小化するために主に下層階級から慰安婦を連行していったものとみられる。
 結婚相手:1名のみが連行前に結婚した経験があるが、この者も連行当時には一人ソウルにいた。残りは全部未婚であり(書類上の結婚1名を含む)、色々な状況からみて処女であったものと判断される。遊郭出身は1名もいなかった。
 出身地及び連行地域:本調査の19名は、日本と満州出身の各々1名を除き、残り17名が南朝鮮地域出身であり、特に慶尚道地域が絶対多数を占める。大部分が農村地域出身者や前でみた色々な事情により、出生地と慰安婦として直接連行された地域には多少差がある。ソウルが重要な連行地となっており、光州、大邱、釜山等の都市で連行されたケースも多い。これは、慰安婦の連行が農村のみでなく、都市地域でも広範囲に行われたことを示している。

    ソウル 京畿 忠南 忠北 全南 全北 慶南 慶北 咸南 日本 満州 北京
出生地 1   1  1     1  2  6  5  1  1       
連行地 3   1        2  1  5  3  1  2  1  1 

 年齢:公娼の娼婦となり得る年齢は、日本では18歳以上であり、朝鮮では17歳以上と規定されていたが(1)、軍慰安婦の場合には一律的に規定された年の制限はなかったものとみられる。1940年の中国駐屯軍隊で娼妓は16歳以上でなければならないとした規定があるのみ(2)で、大部分の軍文書資料に出てくる慰安所の規定に慰安婦の年齢についての言及はない。本研究会で調査した元慰安婦中1名は、11歳に拉致されて台湾に行ったが、満15歳を超えれば許可が出るとして慰安所の手伝いをすることになったと証言した。しかし、その他のどの場合にも年が考慮された様子はない。連行時の慰安婦の年は非常に幼く、前述の11歳に連行されたケースを除いても16歳未満が3名にもなり、残りも16、7歳に集中している。

年齢 11 14 15 16 17 18 19 20 21 22
数  1 1 2 5 4 2 2   1 1

 調査結果は、年齢制限の規定が一部地域でのみ施行されたか、規定はあったが形式のみで実際には守られなかったということを示している。また、全般的に朝鮮で年の幼い女性を大々的に連行していったということが分かる。

動員方法

 軍慰安婦がどのような方法によって動員されたのかの問題は、現在軍慰安婦問題において韓日間の非常に重要な争点となっている。これまで発見された軍文書の中に、慰安婦の動員方式を具体的に説明しているものは一件もない。但し、1942年から敗戦まで、陸軍大本部からトラックと軍人等の提供を受け、済洲道に来て朝鮮人女性を強制連行していった吉田清治の証言(3)がある。しかし、それも最近日本内でその信憑性に問題提起している人々がいる。
 当時の国際慣例に従い、「詐欺、暴行、脅迫、権力濫用、その他一切の強制手段」による動員を強制連行であると把握するならば(4)、本調査の19名のケースは殆ど大部分が強制連行の範疇に入る。本調査は、暴行、脅迫、権力濫用を一つに括って暴力的手段による動員と分類し、その他に就業詐欺、誘拐拉致、身売りの場合に分けてみた。暴力による連行は、軍人や憲兵により行われた場合が大部分であり、軍属とみられる(国防色の国民服を着た)人による場合もあった。就業詐欺は、大部分日本に行けば良い仕事を得ることができるという話に誘われたケースであり、最も多くの部分もを占めている。これは大部分民間人によって行われたが、官(官、班長)や町内会の人の勧誘による場合、軍人と軍属によって行われた場合もある。誘拐拉致や身売りの場合も民間人による場合が多かったが、軍人が行った場合もある。民間人による連行の場合にも、軍が船やトラック等の交通の便宜を提供したり、途中で軍人が慰安婦たちを体系的に強姦する等、軍隊の干渉と統制が加えられた。また、軍が慰安婦「募集過程での騒ぎを防ぐため、募集を行う者の人選に慎重を期すること」(5)と明記した軍文書から見て、募集を行った民間人も軍で指定または許可をした者であるものとみられる。このような事実は、慰安婦募集に全般的に軍隊が体系的に介入したという事実を明らかにしている。

      暴力 就業詐欺 誘拐拉致 身売り その他
民間人      6     1     1       
官勧誘      2                 
軍人、憲兵 3   1     1         1   
軍属    1   4                 

注:1.2名のケースが各々2度の別途の連行過程を経たので、全体の合計が21名となる。
2.その他は、最初に勤労挺身隊として動員されたが工場が逃げ出して軍人に捕まり、軍慰安所に引っ張って行かれたケースである。

 就業詐欺の場合、最初は詐欺によって誘われて行ったが、慰安所に来てからは脅迫と暴力によって慰安婦の仕事を強要させられた。誘拐拉致、身売りの場合も、自身の意思に反して暴力によって慰安婦の仕事が強要された点は同様である。それ故、全体的には軍慰安婦の動員は、暴力による強制連行であったと言うことができる。

連行時期

 1932年に上海に、1934年に満州に軍慰安所が設立され、慰安婦に健康診断を実施する等、軍が組織的に管理をしたという記録(6)が最近発掘され、軍慰安所の当初の形成時期は、日本軍隊がアジア大陸に進出し始めた1930年代の初めであることを物語っている。最近まで軍慰安所の形成時期であると広く認識されてきた1937年の南京大虐殺前後(7)は、軍慰安所がより積極的に体系的に拡大された時期とみることができる。
 既に1933年の満州慰安婦の絶対多数が朝鮮人であったことを明らかにする資料が発掘され(8)、慰安所の形成初期から朝鮮人が多かったとみるべきであろう。しかし、挺身隊研究会で調査した元慰安婦の場合の朝鮮での連行時期は、1937年以後に集中したものとなっている。調査結果から我々は、朝鮮からの慰安婦動員は軍慰安所制度が定着した1937年以後から本格化したという事実を知ることができる。

1936 37 38 39 40 41 42 43 44 45年
1  4 1 2 1 3 1 2 3 1 

地域的分布

 日本軍隊の慰安所が建てられた地域は、「日本軍が駐屯した全ての場所」(9)であると言われる。本研究会で調査した元慰安婦たちがいた地域も日本本土と台湾、朝鮮等の植民地を含め中国、満州南洋諸島等の日本軍の占領地隅々まで広がっている。これらの内多数が、一つの地域のみにいたのではなく、軍隊の移動に伴い、または個人的事情により様々な地域を移動した。

満州 中国 南洋諸島 南アジア 台湾 日本 朝鮮
4  7  2    5    2  2  1 

注:色々な場所を移動した者の中、4名が上の分類上2ヶ所に亘っているので、合計が23名になっている。

慰安所の管理方法

 使用者:たまに民間人も使用し得る慰安所もあったが、大体純粋な形態の軍慰安所は軍人、軍属のみが使用するようになっており、地方官民の使用は一切不可能であった。一方、軍人、軍属は、軍慰安所以外の他の慰安所の使用と売淫婦、上民との接触が厳格に禁止されていた(10)。本調査では1名のみが民間人も慰安所に来たと述べたのみ、そのほかの全員が慰安所には軍属の出入りも禁止され、軍人のみが出入りするようになっていたと証言した。この中、規定を破って軍属や民間人が入ってきた場合の報告はただ2件あるのみである。
 設立と経営:軍文書資料に示された軍慰安所設立の場合を見ると、軍隊が行なった場合、民間が設立して軍の許可を受けた場合、また既存の民間慰安所を軍が指定して軍慰安所として編入、整理した場合等に分けられる(11)。経営は、軍隊が慰安所を設立した場合に軍が直接行なった場合と民間に委任した場合に分かれ、民間人が設立した場合は大部分民間人が経営したものとみられる。従って軍慰安所の形態は、軍が設立して経営した場合、軍が設立して民間が経営した場合、民間が設立して経営した場合の三つの形態に大体分類し得る。民間人の設立者と経営者が全部軍属の身分を持っていたかどうかは定かではない。
 本調査には、5名が第1番目の場合、8名が2番目の場合に、また残りの6名が3番目の場合に分類し得る。第1番目の形態の慰安所は、慰安所が軍部隊の中にある場合が大部分であった。第2番目の形態の慰安所では、軍人が慰安所の建物を建築し、米、副食、毛布、衣服等を軍から供給したが、軍票をもらったり食事の準備、掃除、洗濯等の仕事を民間が行なった。本調査の慰安婦証言では、管理人が頻繁に変わった場合、中間に管理人がいなくなって軍が直接やっていて再度民間に任せた場合、、管理人が慰安婦たちと一緒に慰安所を脱出した場合、管理人が軍から月給を貰った場合等、多様な形態を示している。第3番目の民間が設立して経営した場合の慰安所は、軍とどれほど密接な関連を結んでいたのかの点で多様な程度の差を見せている。しかし、どの場合にも清潔検査、慰安婦定期検診等、軍の統制を受け、軍が定めた慰安所規定を守こととなっていた。大部分の場合、軍人や憲兵慰安所の周辺を警備した。

慰安所の生活

 前述した通り、軍慰安所は各々軍が定めた慰安所規定に従って運営することとなっていたことが、本調査の結果は、この規定が実際にはそのまま守られなかったことを明らかにしている。
 慰安時間と相手数:慰安所規定には、部隊別、階級別の慰安所使用時間表が決められ、一人当りの使用時間制限も規定されていた(12)。本調査の大部分の元慰安婦は、大体において一日の時間表と軍人の階級別出入り時間と使用時間の制限がありはしたが、それがその通りに守られなかったと証言した。戦闘がある時とそうでない場合、平日と週末の差が大きかったためである。軍人が多い場合には、夜明けから門の外に列を作って待ち、服も脱がないまま事を済ませて出ていく人が多く、このような時には、遅くなれば次の人がドアを叩いて催促したりした。一日の相手の数も一定でなく、少ない日は10名以内、多い日は50名以上で数えることも出来なかったという。たいてい夜に泊まっていける軍人は将校であったが、士兵がこっそり入ってきて泊まっていった場合もあったという証言もある。このような中にも民間管理人は、なるべく多くの軍人をとるようにするため、慰安婦各自が相手した軍人の数を棒グラフで描きもし、成績が良い者を賞賛したりもした。
 定期検診及び衛生状況:慰安婦に対する定期性病検査は、日本の軍慰安所制度において非常に重要な事項であった。本調査の19名中4名だけが定期検診を受けなかったと言ったり、定期検診について言及をしなかった。残り15名は全て定期的に病院に行って、あるいは慰安所に来た軍医から性病検査を受けたと証言した。期間は人によって異なり、週1回、毎月2、3回、月1回等となっている。
 日本軍は、軍人たちの間に性病が広がることを防ぐために必ずサックを使用することを指示した(13)。本調査に応答した慰安婦のうち、戦争末期に台湾と日本にいた二名を除いた全員が軍人たちはサックを使用するようになっていたと述べ、そのうち一人はサックを使用しようとしない軍人がいればこれを慰安所を守る憲兵に報告するようになっていたと証言した。しかし、このような規定にも拘らず、頑強にサックを使用しない軍人が多かったと大部分の元慰安婦は証言した。サックは軍人たちが各々持ってきもし、慰安所慰安婦たちの部屋に持ってきて置いておきもした。一度使用したサックを洗って再度使用し、一つを何度も使用した後に捨てたと証言した者も何人かいた。彼女等はこれを洗う時、非常に悲惨さを感じたと告白した。
 このほかに6名が毎回軍人をとった後、消毒水で下を洗ったと証言した。
 このような衛生規定にも拘らず、慰安婦たちの間に性病が少なくなかった。本調査の19名中、7名が性病にかかったことがあると証言した。性病にかかったときには「606号」という注射を打たれた。大部分軍医が治療をしたが、慰安所の主人が注射を打つ場合もあった。2名のみが性病にかかった状態で軍人をとったと述べ、残りは良くなるまでとらなかったと述べた。性病以外にも慰安婦たちはマラリア、黄疸、精神病、下が腫れる病気等の色々な病気に冒され、この病気は今も彼女等を苦しめている。妊娠をしたケースも2名もあった。このうち1名の場合は子供がお腹の中で死に、他の1名は子供を産んで孤児院に預けた。
 残酷行為:慰安婦たちは、軍人と慰安所管理人から様々な残酷行為を受けた。月経の時も軍人をとったのは大部分のケースであり、反抗をしたり拒否する場合、軍人または管理人の最悪な行為に耐えねばならなかった。大部分の元慰安婦は、この時に受けた身体の傷を持っている。
 名前:本調査の慰安婦全員が慰安所でつけられた、あるいは自分がつけた日本式の名前で呼ばれた。
 仕事:大部分の慰安婦が軍人をとる仕事のほかに自分の洗濯をし、そのほかに掃除、飲食を選ぶ仕事、糊付けの仕事等をし、「国防婦人会」のタスキをかけて訓練を受けたり、皇国臣民諸事を空んじることをしたと証言した者もいる。注目し得る事実は、本調査の19名中1名は慰安所に来て最初は看護補助の仕事をしていて後に慰安所の仕事をし、4名が慰安婦の仕事をしていて後に看護補助の仕事に変わったという点である。これは、実際に軍隊経営であれ民間経営であれ、全ての形態の軍慰安所慰安婦が、軍看護婦、軍隊雑婦とともに軍隊の総括的な管轄下にあったという事実を物語るものである。
 慰安婦の国籍:多少の例外的資料を除き、大部分の資料が軍慰安婦の絶対多数が朝鮮人であったことを明らかにしている(14)。本調査の19名中5名のみが大多数の朝鮮人の中に極く少数の中国人、または日本人が一緒にいたと証言し、残りが全部朝鮮人とだけ一緒にいたと述べた。これらのうち何名かは、自分がいた地域に朝鮮遊郭と日本遊郭が別にあったり、定期検診のために病院に行った時に他の国の女たちをたくさん見たと証言したりもした。
 一方、日本人慰安婦は将校用であり、朝鮮人は士兵用であるという元日本軍人の証言がある(15)。日本人と一緒にいたと述べた上の5名中、ただ1名のみがアキアブの慰安所で日本人慰安婦は将校だけを相手し、朝鮮人には兵士と下士官が来たと述べたのみ、残りは全て同じ時間配分に従って将校と兵士を一緒に相手したと証言した。1名は、日本人慰安婦朝鮮人に比べて年をとっており、軍慰安所に来る前に遊郭で職業的な売春婦をしていた人たちであったので、将校たちがむしろ朝鮮人を選好した述べた。

料金の受領与否

 慰安所の規定には軍人たちの階級別に使用時間に従って料金が明記されており、混雑を防止するために料金は大部分票(切符)で支払うようになっていた(16)。しかし本調査の結果は、慰安婦に対する料金支払が大部分なされていなかったことを示している。3名のみが軍人を相手にした対価にお金や軍票を貰ったと証言した。7名がお金や軍票を軍人から貰って管理人に渡したが、一度も精算してもらったことがないと述べ、4名はお金または軍票の管理は管理人が直接行なったと証言した。残り5名は、料金について一切知っているところがないと述べた。軍人から時々小遣いを貰ったことがあると述べた者が何名かいるが、正式の給料ではない。このうち1名は、この小遣いで相当の額の貯金と故郷への送金が可能であったと証言した。ある慰安婦は、管理人が戦争後にいっぺんに精算してやると言って日本が勝つようにと祈祷したと証言した。

帰還事情

 本調査の元慰安婦中、終戦前に慰安所から出てこられたケースが8名になる。このうち2名は脱出したケースであり、1名は性病がひどくて送還され、残りの4名は格別に親しかった将校の助けによって帰国証明書を受け、また1名は慰安所の主人とともに帰国できたケースである。このうち1名は再び慰安所に行くこととなり、12名全部が終戦後に帰還した。敗戦時、日本軍隊が慰安婦をつれて帰郷したケースはほとんどない。上の12名中1名のみが日本軍人と一緒にトラックに乗って慰安所を発ち、残りの者たちはある日から突然軍人が慰安所に来なかったと証言した。軍人が逃げて遺棄された慰安婦たちは多くの困難を経ながら自分で帰国したり、米軍の収容所にいて帰国した。

帰還後の生活

 帰郷後元慰安婦たちは、慰安婦であったという自激之心、慰安婦生活でもらった病気、周囲の目等によって正常な結婚生活をすることができなかった。本調査の19名中6名が結婚したが、そのうち5名は後妻であり、6名全てが結婚に失敗した。8名が同居または第2夫人として家庭を持った経験があるが、大部分失敗した。5名は全く結婚しなかった。現在、2名のみが自分が産んだ子息と一緒に暮らしており、1名が養子と、他の1名がつれてきて育てている孫と一緒に暮らしている。残りの15名は全て一人で暮らしている。経済的また健康面で非常に困難な生活をしている。

結び

 挺身隊研究会で行なった19名の元慰安婦に対する精密調査は、軍慰安婦の実像に接近する多くの基礎資料を提供した。特に、現在軍文書資料では明らかにできないでいる慰安婦動員方式や慰安所の実像等について重要な示唆を与えている。我々はこの調査を通じ、日本の軍慰安所制度が日本軍隊によって体系的に施行されたという点と、特にこれが植民地の下層階級の女性に対する大々的で強制的な動員によって行なわれたことを再確認した。このような軍慰安所制度は、これまで世界史に類例を見い出せない唯一のことである。
 この制度は、女性に対する蔑視思想、植民地に対する暴圧的民族抹殺政策、また階級問題が複合し、日本の軍国主義国家の強制力によって行なわれた戦争犯罪の極端な表れである。従ってこの制度の問題点を把握するためには、性/民族/階級/国家の多次元的視覚が必要であり、この制度を実行した主体である日本軍隊の抑圧的で差別的な特性を暴く必要がある。