連行形態に関する認識の推移を見る限り、吉田証言の真偽が現在の慰安婦問題認識を揺るがすようなことはない

1965年「軍需工場、被服廠で働くのだといわれて狩りだされ」「実際は...軍隊の慰安婦としてもてあそばれた」

朝鮮人強制連行の記録
(P122)
玉致守氏の乗った船で南方に連行された朝鮮女性だけでも二千数百名にも上る。これらの女性は故郷にいるときには戦争への協力を強制され、軍需工場、被服廠で働くのだといわれて狩りだされた一七−二〇歳前後のうら若い娘たちであった。しかし実際はこうして輸送船に乗せられて南方各地の戦線に送られ軍隊の慰安婦としてもてあそばれた。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20140511/1399809440

1973年「警官や村長をつれては来たが強制ではなく、それは詐術的手段としてのもの」

従軍慰安婦」(P102-106)
 忠清北道というのは韓国の中央部にある農村地帯だ。彼女によると昭和十二年暮れから昭和十四、五年ごろまではとにかく、警官や村長をつれては来たが強制ではなく、それは詐術的手段としてのものであったらしい。昭和初年の東北地方で東京の女衒が農民をたぶらかし、娘を連れて行ったのと同様な手口であったらしい。したがって、村の駐在警官は主役ではなく、軍御用女衒の圧力機関とし、サーベルを鳴らしついて行っただけであったようだ。
 全羅南道の出身で、昭和十三、四年ごろ釜山の日本人料理屋で働いていた、という柳慧林さんも同じような事を語っていた。五十六歳、仁川の雑貨商の妻である。それにしても、当時の警官の権威は大変なもので、或る意味では生殺与奪の権をすら持っていた。戦争がすすみ、白い朝鮮服が総督府命で禁止されたとき、それでも知らず着ている農村の老爺老婆にインキをかけて歩いた警官の話も伝わっているし、朝鮮農民は道で通りすがるとき、往年の代官に対する農民のごとく、警官に土下座せんばかりにおじぎをするのが普通であったという。軍御用女衒が彼らを同伴して現われたとき、勧誘に“否”と素直に言えないのが普通ではないだろうか。
(略)
「(略)日本の昭和十六年、その五月か六月ごろ(略)父親が或る日のこと頭をかかえていたのです。駐在所の警官がたずねて来た直後です。」
「若い女性を集めろと言われたのですね」
「そうです」
慰安婦にするためと言って来ていたのですか」
「そこまでは知りません。それに慰安婦という言葉は韓国にはありませんでした。確か軍隊で兵隊さんの世話とか後方で洗濯をする、などの仕事をさせるための女性と言われたようです。でも、それだけ聞くと何のための女かは誰でもわかるでしょう。だから父は同じ同胞として悩んだのだと思います。しかし拒むことは許されません。断ったり拒んだりしたら自分が刑務所に入れられるだろうし、家族もまた酷い目にあわされるのも分かっていました」
(略)
「彼女らが出かけて行くときの様子は如何でしたか。母親が涙で見送るなどの光景があったのでしょう」
「泣いて見送る光景は確かにありましたが、それは就職のため故郷を離れる者を見送るときのあれで、深刻なものはなかったように記憶しています。慰安婦にされるとは、見送る方も見送られる方も知らなかった訳ですから当然でしょう。ところが何ヶ月すぎても音信がない、何処に行ったかも分からない。私の父親の所へ、“何処へ行ったか”尋ねに来る人もいましたが、その時も父は苦しそうでした」
(略)
彼の村から出た二人は日本人の言う敗戦後、朝鮮人の言う解放後になっても帰って来なかったという。

千田氏の「従軍慰安婦」には“挺身隊”名目の連行についても書かれていますが、詐欺的連行、警察の圧力による連行なども上記の通り言及されています。
なお、挺身隊と慰安婦の混同は、少なくとも日本においては、朝日新聞の影響と言うより千田氏「従軍慰安婦」の影響が強いと言えます。1991年頃には“挺身隊名目で連行された慰安婦”に言及する書籍が多くありましたが、参考にされているのは千田氏の著書がほとんどです。

以上は、吉田証言(1982年)以前の事例です。吉田証言以後もそれが取り立てて大きく取り扱われることはなく、慰安婦問題が大きな社会問題になるのは1991年8月になって元慰安婦が名乗り出てからです。

1992年秦郁彦「実状はまさに「半ば勧誘し、半ば強制」になったと思われる」

1992年に吉田証言を「虚構らしいことを確認した」秦郁彦氏は、千田氏や金一勉氏の著書を参照して以下のように記載しています。

(正論1992年6月号)
 実際に人選する面長と派出所の巡査は、農村社会では絶対に近い発言力を持っていたので「娘たちは一抹の不安を抱きながらも“面長や巡査の言うことであるから間違いないだろう”と働く覚悟を決めて」応募した。実状はまさに「半ば勧誘し、半ば強制」(金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』)になったと思われる。

つまり、秦氏は面長や巡査の威圧による「半ば勧誘し、半ば強制」での慰安婦連行を認めているわけです。ただし、秦氏の価値観では、公的機関がこのような圧力をかけて女性と親を騙して売春を強要する行為には何の責任もない、ということになっているようですが。

1992年「(詐術あるいは威圧的雰囲気による方法)」「(事実上動員の方法)」

日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告1992年7月」は吉田証言を取り上げてはいるものの、「(詐術あるいは威圧的雰囲気による方法)」「(事実上動員の方法)」という吉田証言の真偽に影響されない連行についてより多く言及しています。

 おおよそ1938年までは、主に都市地域で女工募集、食堂従業員募集などの典型的な人身売買の方法で募集したものと見られる(12)(13)。
 1938年〜1940年頃までは業者が軍の許可の下、憲兵、警察、面長(村長)などの手助けを得て、主に農村の貧しい農夫の娘を特地看護婦、軍看護補助員募集などの名目でだまし、募集したものと見られる。この時警察や面長が業者と同行することで(14)、威圧的な雰囲気を作ったり、犠牲者たちが業者を簡単に信じるように見せ掛けたりしたものと見られる。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20140830/1409427806

総督府は道・郡・面(村)にひそかに動員命令を伝え、面長の責任下で動員するようにしたし(16)、当時使われた手段は軍部隊での雑役、看護補助、軍需工場の女工あるいは女子特殊軍属(**2)などと騙したものと推定される(17)(18)。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20140830/1409427806

1993年「日本政府は主に詐欺を含む強制動員の方法を使って慰安婦を徴集」「就業詐欺は...最も多くの部分もを占めている」

挺対協が作成した「強制的に連行された朝鮮人従軍慰安婦1993年2月」には以下のように書かれています。

日本政府は主に詐欺を含む強制動員の方法を使って慰安婦を徴集したので、これによって起こる社会的物議を最小化するために主に下層階級から慰安婦を連行していったものとみられる。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog+D/20140606/1409991813

当時の国際慣例に従い、「詐欺、暴行、脅迫、権力濫用、その他一切の強制手段」による動員を強制連行であると把握するならば(4)、本調査の19名のケースは殆ど大部分が強制連行の範疇に入る。本調査は、暴行、脅迫、権力濫用を一つに括って暴力的手段による動員と分類し、その他に就業詐欺、誘拐拉致、身売りの場合に分けてみた。暴力による連行は、軍人や憲兵により行われた場合が大部分であり、軍属とみられる(国防色の国民服を着た)人による場合もあった。就業詐欺は、大部分日本に行けば良い仕事を得ることができるという話に誘われたケースであり、最も多くの部分もを占めている。これは大部分民間人によって行われたが、官(官、班長)や町内会の人の勧誘による場合、軍人と軍属によって行われた場合もある。誘拐拉致や身売りの場合も民間人による場合が多かったが、軍人が行った場合もある。民間人による連行の場合にも、軍が船やトラック等の交通の便宜を提供したり、途中で軍人が慰安婦たちを体系的に強姦する等、軍隊の干渉と統制が加えられた。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog+D/20140606/1409991813

我々はこの調査を通じ、日本の軍慰安所制度が日本軍隊によって体系的に施行されたという点と、特にこれが植民地の下層階級の女性に対する大々的で強制的な動員によって行なわれたことを再確認した。このような軍慰安所制度は、これまで世界史に類例を見い出せない唯一のことである。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog+D/20140606/1409991813

もとより、元慰安婦らの証言をベースとした報告であって、吉田証言の真偽には全く影響しない内容と言えます。

1995年「だまされた事例」「身売りされて」「暴力的連行のケース」

1995年になると、吉見義明氏「従軍慰安婦 (岩波新書)」に日本軍慰安婦の研究が新書レベルでまとめられ、ほぼ現在国際的に認識されている問題が固まることになります。

(P92-111)

2 朝鮮からの場合

だまされた事例

 朝鮮からの徴集でもっとも多いのは、だまされて連れて行かれたケースだった。(略)途中で、おかしいと気づいても逃げるすべは無く、故郷に帰ってもいいことはないとあきらめ、待っている仕事はそんなひどいこともないだろうと思い直し、なんとか前途に希望を見いだそうとしながら、最後に軍慰安所でつらい現実に直面させられたのであった。

身売りされて

(略)
 売られて慰安婦にされた女性も、多くの場合、前渡し金による経済的拘束と詐欺がからみあっていたことがわかる。(略)

暴力的連行のケース

 (略)
 彼女は、中国東北の軍慰安所に入れられる。拉致した日本人は、軍人か、巡査か、カーキ色の国民服を着た民間人か、断定できない。しかし、夕暮れ時であること、連れがいないこと、民間人らしき人物に引き渡されていることなどから、民間人による誘拐の可能性が高いのではないだろうか。もちろん、警察がこのような犯行を見落すか見逃すということは、軍から慰安婦送出への強い要求があるのだから、ありえたことであろう。

3 台湾からの場合

 (略)44名の徴集のされ方をみると、だまされた者は22名で、半数に達している。(略)
 つぎに多いのは、強制的に集められたケースで、10名いる。5名は役場から割り当てられたという。3名は看護婦の名義で強制的に行かされたが、強制したのは、周旋人と叔父だったり、周旋人や病院の看護士長だったりした。養父と周旋人が強制したケースもあった。これとは別に、看護婦として戦地に行き、しばらく看護婦をしていたが、途中でむりやり慰安婦されたという人が2名いた。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20120603/1338689200

1996年クマラスワミ報告「彼らは表向きは軍の料理人や洗濯婦という給料のよい仕事を世話するといって土地の少女たちを騙す」「徴集について三つのタイプが識別できる。すでに娼婦であった女性と少女の自発的応募、料理屋のあるいは軍の料理人または洗濯婦として給料のよい仕事で女性を騙す、および最後に日本の支配下にある国々での大規模な強制と奴隷狩に匹敵する女性の暴力的連行。」

安倍政権が敵視するクマラスワミ報告ですが、若干の誤記・誤認があるとしても1995年までの研究成果に概ね沿ったものであると言えます。

23.第二次世界大戦の直前及び戦争中における軍事的性奴隷の徴集について説明を書こうとする際、もっとも問題を感じる側面は、実際に徴集がおこなわれたプロセスに関して、残存しあるいは公開されている公文書が欠けていることである。「慰安婦」の徴集に関する証拠のほとんど全てが、被害者自身の証言から得られている。このことは、おおくの人が被害者の証言を秘話の類とし、あるいは本来私的で、したがって民間が運営する売春制度である事柄に政府をまきこむための創作とまでいって退けることを容易にしてきた。それでも徴集方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多様な地域の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれの目的のために公的関与の範囲についてそのように似通った話を創作できるとはまったく考えられない。

http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/cwara.HTM#hist-bg-b

当然ですが、被害者証言を反証もなく捏造扱いするような愚行はしていません。

27.しかし前述のようにこの情報は元「慰安婦」の話のなかに沢山あり、無理なく明確な像がえられる。徴集について三つのタイプが識別できる。すでに娼婦であった女性と少女の自発的応募、料理屋のあるいは軍の料理人または洗濯婦として給料のよい仕事で女性を騙す、および最後に日本の支配下にある国々での大規模な強制と奴隷狩に匹敵する女性の暴力的連行。
28.より多くの女性を求めて軍のために活動していた民間業者たちは、日本人と協力して活動する朝鮮警察のメンバーと同様に、村にやってきて給料のよい仕事の約束をして少女たちを騙すことがあった。あるいは1942年に先立つ数年間は、朝鮮警察が村に来て「女子挺身隊」を募集した。このことは徴集を日本の当局により是認された公的なものとし、一定程度の強制を意味するものともした。もし「挺身隊」として推薦された少女がそれを断った場合には、憲兵隊または軍警察がその理由を取り調べた。実際に「女子挺身隊」は日本軍に、上記のように偽りの口実で「戦争努力に参加する」よう地方の少女たちに圧力を加えるため地方の朝鮮人業者と警察を利用する機会をあたえた。

http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/cwara.HTM#hist-bg-b

挺身隊と慰安婦に関して説明不足の点があるとは言え、「だまされた事例」「身売りされて」「暴力的連行のケース」と言った認識がされています。

31.おおくの少女たちは、若く世間知らずであったために、よい就職を世話するという申し出を疑いもせず、強制連行に抵抗できなかった。そしておおくの場合、売春とか性行為について全く何も知らなかった。徴集の実行に信頼する村の巡査、役場がしばしば関わっていたという事実は、彼女たちを一層無防備にし無力にした。/訳注3そのうえ売春にともなう汚名は、戦争が終わらないうちに苦役から帰ることのできた女性たちがその経験を話し、それによって他の少女たちに危険を警告する道を絶った。女性被害者のほとんどが、ぞっとする経験を隠し社会に再復帰することに懸命だったのである。

http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/cwara.HTM#hist-bg-b

クマラスワミ報告から吉田証言に関する部分を除いても、日本軍による売春強要という事実が変わるわけではないことが、“普通の”理解力があれば分かります。

1998年マクドゥーガル報告「軍部の要請を代行する慰安所管理者の依頼を受けた民間業者が、慰安婦を徴集」「多くの場合、甘言や脅迫の手段をとって女性を募集」「行政官吏や軍要員が徴集に直接かかわる場合もあった」

(f)徴集
「多くの場合、軍部の要請を代行する慰安所管理者の依頼を受けた民間業者が、慰安婦を徴集した。戦争の拡大に伴って慰安婦への需要が高まったため、これら業者は多くの場合、甘言や脅迫の手段をとって女性を募集し、女性たちは自己の意思に反して応募することになった。なかには、行政官吏や軍要員が徴集に直接かかわる場合もあった」

http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data5/data5-08.htm

こちらでも同じく「だまされた事例」「身売りされて」「暴力的連行のケース」と言った認識がされています。

2000年女性国際戦犯法廷判決「甘言や詐欺まがいの言葉や朝鮮総督府下の権力行使によって多くの若い女性たちが「募集」に応じ、あるいは連行された」「台湾総督府の行政の末端を担当していた警官に連行されたケース」「山西省盂県のように掃討作戦で中国人女性を拉致し、駐屯地に連行」

安倍晋三議員らの恫喝介入によってNHKの番組が改変されたことで知られる女性国際戦犯法廷ですが、その起訴状において吉田証言とは一切関係なく、「だまされた事例」「身売りされて」「暴力的連行のケース」を挙げています。

起訴状

 3、当初、慰安所には日本「内地」から日本人女性や在日朝鮮人女性を集めて中国に送ったが「内地」からの徴集では足りず、次第に植民地の女性が「慰安婦」徴集のターゲットにされていった。当時、朝鮮は日本の植民地支配がもたらした貧困により日本国内や中国東北に渡る者も少なくなかったが、そうした生活困窮にあって「いい仕事がある」「金儲けができる」といった甘言や詐欺まがいの言葉や朝鮮総督府下の権力行使によって多くの若い女性たちが「募集」に応じ、あるいは連行された。また、植民地・台湾では、漢民族の女性への徴集だけでなく、現住民族の女性が台湾総督府の行政の末端を担当していた警官に連行されたケースもあった。一方、中国では、中国人女性を騙したり地元の有力者に供出させたり、或いは「妓院」から「妓女」を強制的に連行するなどにより地元の中国人女性を徴集した。慰安所が設置されない前線の部隊では、山西省盂県のように掃討作戦で中国人女性を拉致し、駐屯地に連行して連続的強姦をするといったケースも続発した。

 4、1941年7月関東軍特種演習に際して、関東軍参謀原善四郎中佐は、「慰安婦」2万人を朝鮮半島から集めようと企てた。実際に事務処理を行った村上貞夫(関東軍参謀部第三課兵站班)が残した「手紙」(千田夏光氏所蔵)によれば実際に集まったのは3000人*1というが、軍が本格的に慰安所設置を展開する重要な転機であった。

 5、第3段階:1941年〜敗戦までのアジア太平洋戦争段階
 1941年12月8日、アジア太平洋戦争が始まると南方軍とその傘下の日本軍は占領した東南アジア、太平洋諸島の各地に次々と慰安所を開設していった。1942年5月頃に南方作戦がほぼ一段落すると、占領地域は最も拡大していた。マラヤにおいてはマレ−戦の最中に慰安所が開設され、1942年2月15日にシンガポールが陥落するや当地に慰安所が開設された。フィリピンでは1942年5月12日に早くもパナイ島イロイロに慰安所が設置され、ビルマでは1942年5月1日のマンダレ−、8日のミ−トキ−ナ占領後まもなく慰安所が開設された。他にもインドネシア、アンダマン、ニコバル諸島ラバウル、カビエン、サイパン、トラック、パラオ、グァム等、日本軍が占領した地域にはほとんど慰安所が開設されていった 。これらの占領地には、日本人女性や植民地から朝鮮人女性をはじめとして台湾人女性・中国人女性が連行され「慰安婦」にされただけでなく、占領地の女性たちも「慰安婦」にされたり、強かんされるなどなど被害を受けた。

 6、以上、日本軍は第一次上海事変時を第一期とし、第二期の日中全面戦争開始以降、第三期のアジア太平洋戦争開始以降と戦線拡大に伴い慰安所設置と「慰安婦」徴集の規模を拡大していったのである。

http://takenouchimari.blogspot.jp/2013/05/2000_15.html

2007年アメリカ下院決議121号

第一次安倍政権期に慰安婦問題否認論が日本国中に蔓延したことに対して、2006年には採決に至らなかった慰安婦問題における対日非難決議が、2007年には可決されることになります。

Whereas the Government of Japan, during its colonial and wartime occupation of Asia and the Pacific Islands from the 1930s through the duration of World War II, officially commissioned the acquisition of young women for the sole purpose of sexual servitude to its Imperial Armed Forces, who became known to the world as ianfu or `comfort women';

http://ameblo.jp/scopedog/entry-10031011920.html

しかし、その決議文には「officially commissioned the acquisition of young women」すなわち、若い女性の獲得を依頼したとあり、吉田証言は影も形もありません。それでもアメリカから非難されていることから、吉田証言の真偽が慰安婦問題における国際社会の対日感情にほとんど影響していないことがわかります。

まとめ

以上、見てきた通り、1965年の日韓国交成立頃から日本政府・右翼がこだわる極めて狭い意味での直接的な“強制連行”の有無と関係なしに、「だまされた事例」も含めて日本側に責任がある、そして連行後の強制売春の非人道性も含めた“強制連行”として慰安婦問題は認識されてきたわけです。社会問題として大きく認知されたのは、元慰安婦らが名乗り出た1990年代に入ってからで、国際的にも、日本軍が民間に委託して行なった詐欺的連行を含めて非難の対象となってきました。
ただ、日本だけは1990年代後半から慰安婦問題を否認する右翼勢力が巻き返しを図り、日本軍が直接的に暴力による連行さえしていなければ、委託した民間業者に拉致された女性に日本軍相手の売春を強要しても問題ではないと、プロパガンダを展開し、小泉・安倍政権期にプロパガンダがほぼ成功を収めることになりました。
このため、世界中で日本人だけが、自らが直接かつ強制的に連行したのでなければ、自分の管理下にある女性に売春を強要しても構わないという誤った認識を抱くに至っています。

現在、全国紙で慰安婦問題の強制性を訴えているのは朝日新聞のみで、産経新聞・読売新聞は、拉致行為を外注さえしておけば、監禁して強制売春させても無問題という認識での論陣を張り、毎日新聞慰安婦問題の本質に言及することを避け朝日非難を続けています。
NHK池田信夫氏は、積極的に性暴力被害者を侮辱する発言を行い、同じく元NHK池上彰氏は人権問題としての慰安婦問題への言及を巧みに避けつつ朝日非難に参戦し売名を図るという処世術を見せ付けています。
政治家は、議論のすり替えで朝日新聞を非難し、国民を煽り、メディア同士をかみ合わせることでメディア弾圧を図っています。著しく公正と公平を欠いた現状で、見せ掛けの公平性を求めて朝日非難に加わるリベラル言論人もいます。
朝日新聞も程なく、政治と衆愚の圧力に折れることでしょう。


世界中で日本人だけが抱く、“自らが直接かつ強制的に連行したのでなければ、自分の管理下にある女性に売春を強要しても構わないという誤った認識”、を日本人自身の手で正す最後の機会が失われようとしています。
まあ、昔もあったことですがね。

*1:8000人の誤記か?