元慰安婦証言を論う連中は「竹林はるか遠く」をどう評価しているのだろうか

母さん、あの本はどうしたでせうね ええ、去年の夏、ネトウヨが絶賛していたあの「竹林はるか遠く」ですよ…。

the_sun_also_rises
資料ブクマ,ついに翻訳されるようなので今日予約した。発売日は6月28日。なぜこれが米国の副教材になっているのか知りたいと思う。韓国社会で反発があるようなのだが不思議に思っているのでその理由も知りたいと思う。

http://b.hatena.ne.jp/entry/148375166/comment/the_sun_also_rises

どうも書評をつけている人が少ないようで気になっていたのですが、やっと読んでみました。量的には1〜2日あれば読めてしまうくらいのものです。
内容の評価としては、ひどいというか杜撰というか、いや当事者の記憶に頼った記録というのは曖昧になって当然ではあるのですが、出版にあたってはもう少し記憶を整理するなり、まともな歴史家に注釈を求めるなりするべきで、それが全然なされていないんですよね。読んでて、こっちが混乱しそうな感じです。
はっきり言って、よく知られている元慰安婦証言の方がよほど正確で、元慰安婦証言にあれこれ因縁をつけているネトウヨが「竹林はるか遠く」の誤りには全く沈黙するのはさすがにどうなのか、と思いますね。
さらに言うなら、吉田清治証言とも大差ないレベルで下手すりゃそれより劣ります。
慰安婦証言に対する因縁の定番である年齢の間違いもありますし、“ジープ”云々よりひどい事実誤認もあります。誤っている部分を好意的に解釈しようとすると他の部分で不整合が生じるという頭の痛くなる代物です。

もちろん、著者のヨーコ・カワシマ・ワトキンズ氏が全くの捏造をしたとは思いませんが、1986年に本書をまとめた際に相当の脚色を行ったのは確かでしょう。反共のレーガン政権期には副読本として使えても、現在において読むべきとは思えません。せめて歴史家による注釈くらいつけておくべきです。

好意的に解釈した場合

ヨーコ氏と母、姉の3人が羅南から避難したのは、おそらく1945年8月9日から15日の間で京城から釜山まで移動したのが1945年冬、日本に帰国したのは1946年以降と思われます。それなりに苦労したのは確かでしょうが、多くの引揚者の中では相当優遇された方でしょう。
朝鮮からの引揚に関してはいくつか手記が出ていますが、そちらの方がより過酷さの描写に優れています。それに比べれば「竹林はるか遠く」は荒唐無稽な記述が多く唖然とさせられます。

「竹林はるか遠く」のおかしな部分

Wikipediaのあらすじに以下の記述があります。

1945年(昭和20年)7月29日深夜、松村(まつむら)伍長がソ連軍が侵攻してくることを一家に伝え、すぐに町を脱出することを勧める。父と淑世(ひでよ)は不在だったが、ソ連軍は既に近くに迫っており、2人に連絡する時間はもはやなく、書置きを残して、母と擁子(ようこ)と好(こう)の三人は最低限の荷物と財産を持って、松村(まつむら)伍長の勧めどおり赤十字列車に乗って羅南(らなん)を脱出した。列車はその後京城(けいじょう)まで70キロの地点で爆撃に遭い、機関車が破壊されたので、三人は列車を降り、徒歩にて京城(けいじょう)を目指す。しかし半島内は既に、ソ連軍と呼応した、朝鮮共産党軍の兵士によって、北から南へ逃走中の日本人は片っ端から殺害され、日本人の遺体は金歯を引き抜かれ身ぐるみ剥がされ、日本人の土地家屋財産などが奪われ、日本人の若い女を見つけると草むらや路地裏に引きずってでも強姦されていたが、彼らを怒らせたら他の日本人が集まる避難所を攻撃されるとされ、周囲にいた日本人難民は反撃できないで、悲鳴を聞いても黙って耐えるという地獄絵図と化していた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9E%97%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%8B%E9%81%A0%E3%81%8F-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%BD%93%E9%A8%93%E8%A8%98

内容的には、まあ大体この通りですが、これ見ても「おや?」と思う人はいるでしょう。
のっけの「1945年(昭和20年)7月29日深夜、松村(まつむら)伍長がソ連軍が侵攻してくることを一家に伝え」の部分からおかしいんですね。
ソ連の参戦は1945年8月9日で、10日も前に一介の伍長がそれを知っていて、ヨーコ一家にそれを伝えるのはまず考えられません。むろん、ソ連の参戦が近いのではという予測自体は噂レベルで流れていたでしょう*1が、確信を持って避難しろと言える状況ではありません。しかし、全体を通してここだけ明確に7月29日という日付が書かれていますので、相当違和感があります。
あるいはヨーコ一家だけが先に知りえた情報でいち早く脱出したのか、と思いきや羅南の駅は避難しようとする人たちや負傷兵でごった返しているという記述(P41)になり、訳が判らなくなります。羅南は第19師団の編成地であり、民間人の避難はかなり遅れたところですが、「竹林はるか遠く」にそういった記述はありません。それどころか、自宅から羅南駅までの徒歩40分の途上で、ヨーコ一家は、“朝鮮人の共産軍”が「1,2,3,4」と声を出しながら行進してくるのに出くわし、隠れてやり過ごすというシーンがあります。繰り返しますが、1945年7月29日深夜の朝鮮北部羅南での話です。当時、ソ連領内から偵察隊として少人数の部隊が朝鮮内に入り込んでいたという話はありますが、駅への途上を堂々と行進するような状態だったとは思えません。8月14日になってもソ連軍の侵攻すら知らなかった人もいます*2
そしてこの“朝鮮人の共産軍”というのは、この本のあちこちで出てきますが、荒唐無稽な記述が多く信頼性に欠けます。
例えば、7月29日に羅南から避難するために乗った列車ですが、途中で共産軍の臨検を受けています(P54-56)。明確な日付が書かれていないものの、7月29日に列車に乗ったとすれば、共産軍の臨検は7月末か8月初めであり、どう考えてもソ連参戦以前の出来事となり、史実と矛盾します。無論、日付が記憶違いであり、ソ連占領下となった後という可能性も無いではありませんが、そのすぐ後に、京城から70キロ地点で列車が空襲を受けています(P56-58)。

徒歩での京城

その後、ヨーコ氏ら3人は空襲で動けなくなった列車を降りて徒歩で京城に向っています。不思議なことに列車に乗っていた大勢の人たちはそのまま列車に留まり、ヨーコ氏ら3人だけで京城に向うことになります。その徒歩での移動中に、共産軍3人に襲われ強姦されそうになりますが、まさにその時飛来した飛行機から落とされた爆弾で、襲ってきた共産軍3人だけが即死し、ヨーコ氏ら3人は全員助かることになります(P68-70)。
まあ、絶対にありえないとまでは言いませんが、さすがにそのまま事実として信じるには逡巡したくなるほどの出来すぎた話です。

ところで、敗戦前後の朝鮮からの引きあげに関しては、「秘録大東亜戦史 大陸・朝鮮篇」に多くの体験談が掲載されており、ソ連軍・保安隊などの略奪や暴行・強姦についても書かれているんですが、「竹林はるか遠く」に書かれているような強姦・虐殺とは大分印象が異なるんですよね。

矛盾する場所

これが慰安婦の証言であれば、間違いなく右派からデマ扱いされた箇所があります。
日本に帰国した後、ヨーコ氏の台詞として「今日は大晦日。明日、私は十二歳になるのよ!お姉様は十七よ!」と語る部分があります(P191)。ヨーコ氏は1933年生まれですから、数え年で12歳になるのは1945年1月で、まだ戦争中です。満年齢とごっちゃになっているとすれば、1946年1月だという解釈も成り立たなくはありません。ただ、そうすると「竹林はるか遠く」の構成から、このヨーコ氏が12歳になる同じ冬に、姉の好の台詞として「吉田総理大臣は物分かりが良くなった」と語る部分(P184)と矛盾します。
吉田茂が首相になるのは、1946年5月です。
とすれば、1947年以降の1月ということになりますが、どう計算してもヨーコ氏が12歳の時ではありません。また、「竹林はるか遠く」の構成上も、1〜2年の空白が生じることになり理解が困難になります。

「竹林はるか遠く」の記述の信憑性が吉田清治証言レベル

おそらくヨーコ氏らが敗戦前後に朝鮮北部からの引揚げで苦労したこと自体は事実なのだと思いますが、「竹林はるか遠く」の記述自体は脚色や誤認があまりにも多く信用できるとは言いがたいと評価せざるを得ません。

はっきり言って、吉田清治証言と大差ないレベルです。元慰安婦らの証言と比べることすら躊躇するほどレベルの低い内容です。

引揚げ関連の歴史に詳しい専門家により精査し、明らかに矛盾する内容や体験できるはずのない内容は削除し、前後がはっきりしない内容などは明確にその旨を記載するなどしない限り、このまま体験談として出版するのは有害無益としか言えません。

私の評価を信用できないと思う人は、id:the_sun_also_rises氏にでも聞いてみれば良いでしょう。少なくともthe_sun_also_rises氏は、この本を予約したわけですから、所有はしているでしょうし、読んでいるかも知れません。

吉田証言レベルの「竹林はるか遠く」を紹介する産経新聞

産経新聞はもちろん好意的に書評を掲載しています。

【書評】
『竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記』
2013.10.12 08:42
 ■戦争の悲惨さと平和の尊さ
 「在米韓国人が猛抗議」「全米中学校の教材から排除運動」−。1986年に米国で刊行された本書は、その20年後に突然、理不尽な嵐に巻き込まれる。同様の動きが「慰安婦問題」という形で世界中に広がる最中、本書の出版が発表されるや、予約の段階でアマゾンランキング総合1位を記録。発表4カ月後の今も口コミで広がり続け、高い人気を維持している。
 著者は昭和8年、青森生まれ。父が満鉄職員のため、生後間もなく家族で朝鮮半島北部の羅南に移住。戦況が悪化した20年、当時11歳だった著者は母と5歳年上の姉の女3人だけで半島を逃避行する。
 本書は、この時の体験を米国在住の著者が子供たちに分かりやすく伝えたいと、少女の目線から平易な英語でつづった物語である。抗日武装勢力に追われ、命の危険に幾たびも遭遇、その上乏しい食糧で、死と隣り合わせの日々が連続…。危機意識の低い今の日本人には学ぶことが多い。
 戦後の記録的なベストセラーとなった藤原ていさんの『流れる星は生きている』、世界中で読まれている『アンネの日記』などに「匹敵する戦争体験記」というありがたい感想もいただいている。
 本書に一貫して流れているテーマは「戦争の悲惨さと平和の尊さ」、そして特に、ともに苦難を乗り越える母と姉との「家族愛」。問題となった朝鮮人に関する描写の適否は、賢明な読者の判断にお任せしたい。刊行から四半世紀を経て、この貴重な物語が日本語で読めるようになったことを素直に喜びたい。(ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著&監訳、都竹恵子訳/ハート出版・1575円)
 ハート出版編集部 西山世司彦

http://sankei.jp.msn.com/life/news/131012/bks13101208430001-n1.htm

産経新聞は1945年7月29日の羅南で大勢の日本人がソ連侵攻を予期して列車で避難したことが事実であるかの裏づけを取っているのでしょうか?

まあ、ろくに取材もしないような新聞社が裏づけなんか取ってるわけないでしょうねぇ。


追記2014/9/9

ここには羅南から避難した日本人の体験談が載っていますが、邑事務所から日本人は避難するように言われたのは1945年8月12日になってからとありますね。
引揚げルートとしては、ヨーコ氏ら一行とかなり似通っており、ヨーコ氏の実際の経過もこれに近かったのではないかと思います。
ちなみに、この人の場合は、元山で1946年の正月を迎え、38度線を越え、1946年5月に博多にたどり着いています。「竹林はるか遠く」では、博多港が引揚者の港しては閉鎖される旨の記述があります(P184)が、このあたりも不整合があると言えます。引揚用の港が舞鶴に一本化されるのは、1950年頃ですから*3、ヨーコ氏らが兄と再会したのは1950年以降であろうと思われますが、「竹林はるか遠く」の記述は極めて曖昧で判然としません。

*1:それでも、ソ連参戦と朝鮮北部への侵攻を予想した民間人はほとんどいなかったそうです。「秘録大東亜戦史 大陸・朝鮮篇」P392

*2:「秘録大東亜戦史 大陸・朝鮮篇」P495

*3:http://maizuruwalker.web.fc2.com/hikiage/index.htm