そもそも妓生(キーセン/キーサン)=売春婦ではないし、仮に売春婦であったとしても強姦や売春強要が免罪されるわけではない

慰安婦問題否認論者は、金学順氏の証言に関して、キーセン学校に通っていたことをやたら重要視します。
その認識の背景には、妓生(キーセン)=売春婦である、という誤認があり、かつ、売春婦に対してなら強姦しても売春強要しても構わない、という人権意識の欠落があります。

メディアでは産経新聞と読売新聞が、売春婦に対してなら強姦も売春強要も構わない、という認識を極右排外主義者らと共有しています。例えば、読売新聞は2014年8月29日にこのような記事を掲載しています。

[検証 朝日「慰安婦」報道](2)記事と証言に食い違い

2014年08月29日 09時00分

■触れなかった過去

 植村氏は91年12月25日の朝刊5面(大阪本社版)で再び、金さんの苦難の人生を取り上げる。
 だが、植村氏は一連の報道で、金さんが母親に40円で「妓生キーセンを養成する家」へと養女に出された事実には触れていない。妓生は宴会などで芸事をする女性のことで、妓生から慰安婦になった人もいたとされる。
 さらに、金さんは、養父から「中国に行けば稼げる」と言われて北京に連れて行かれたと証言している。植村氏の一連の記事では、金さんをだました人について、「地区の仕事をしている人」などと表現し、養父であることがわからなくなっている。
 金さんらは同年12月、日本政府に補償の支払いを求める訴訟を東京地裁に起こした。金さんらの弁護団を率いた高木健一弁護士は8月、読売新聞の取材に対し、「金さんも我々も、強制連行されたとも、挺身隊だとも言っていない。彼女は妓生学校(養成所)に行ってから売られた」と述べた。
 「日本軍に強制連行された慰安婦」と「親から身売りされた不幸な慰安婦」では、意味合いが全く異なる。にもかかわらず、朝日は今年8月5日の特集記事「慰安婦問題を考える」の中で、「キーセンだから慰安婦にされても仕方ないというわけではないと考えた」という植村氏の説明を紹介した。

http://www.yomiuri.co.jp/feature/ianfu/20140829-OYT8T50015.html

貧しい家庭の子供が他家に養子に出されるのはさほど珍しくもない話ですが、読売新聞は養子に出された女児に対して売春強要しても何の問題もないと考えているようです。
そして、記事全体で「妓生キーセンを養成する家」を繰り返し強調し、「妓生から慰安婦になった人もいた」などと、妓生であれば自発的に慰安婦になるかのように記載しています。
しかし、そもそも妓生は日本の舞妓や芸者に相当するもので、基本的に売春婦ではありません。まあ読売新聞では舞妓や芸者を売春婦扱いしているのかもしれませんね。多分、読売記者は芸者と言えば枕芸者しか思いつかないのでしょう。

妓生(キーセン)

妓生(キーセン) 「もの言う花」の文化史

【妓生とは】
朝鮮王宮の宮妓学校生徒の略。十三歳から十五歳までの少女に歌舞音曲のみならず詩歌管弦などの技芸を教え、宮廷の宴席で奉仕させたのが始まり。その位置・役割は時代に応じて変容し、李朝朝鮮時代までは主として宮妓を指したが、日本の進出と植民地化にともない、日本の娼妓的な役割を強め、今日に至っている。

http://www.sakuhinsha.com/japan/3860.html

「韓国券番(1908-1942)における妓生教育-妓生教育の内容と舞踊教育-」(許娼姫)を見てもわかるように、基本的にキーセン学校は歌舞音曲詩歌管弦を教える学校で、日本で言えば舞妓や芸妓に舞踊などを教える学校に相当します。
芸者の中には、枕芸者と呼ばれる実質的な売春婦がいるからと言って、舞妓や芸妓全てが売春婦扱いされたりしないように、妓生(キーセン)の中に実質的な売春婦がいるからと言って妓生(キーセン)が全て売春婦なわけではありません*1
まして、枕芸者が舞踊などを学校で学ばないように売春を行なう妓生(キーセン)もキーセン学校で歌舞音曲を学んだりはしないでしょう。

キーセン学校に通っていたということは、売春などをせずに純粋な歌舞音曲という芸能で生計を立てることを目的としていたことを意味します。
その意味では、「「妓生キーセンを養成する家」へと養女に出された事実には触れ」る必要性そのものがありません。

参考:「植民地朝鮮における妓生文化史 The cultural of Gisaeng in Colonial Korea」新垣友規、指導:蔵持不三也
参考:「妓生と遊女からみた社会的位置づけの変遷」立正大学大学院 李京真

「「日本軍に強制連行された慰安婦」と「親から身売りされた不幸な慰安婦」では、意味合いが全く異なる。」?

「意味合いが全く異なる」と読売記事では書かれていますが、どう異なるのでしょうか?
日本軍相手に売春を強要される被害者を、日本軍自ら直接暴力で連行したか、人身売買で親から日本軍が買い取ったか*2、で日本軍の加害性がどう変わるのかわかりません。

読売新聞の社としての認識では、強姦相手を自ら直接拉致するのは犯罪だが、騙して連れ込めば強姦しても構わないし、人身売買組織から女性を買い取って強姦しても問題ない、ということなのでしょう。

まあ、実際日本では、騙されて性風俗やAV撮影の被害者になっても被害者側の落ち度ばかり追及されますし、強姦されても死ぬ覚悟で抵抗するか、あるいは実際に死ぬか誰が見てもわかるくらいの重傷を負わない限り、和姦扱いするのが普通ですからね。

ある意味、韓国・朝鮮は、21世紀になってもこの程度の人権意識しか持てない異常な国に植民地支配されたこと自体が不幸だったということかも知れませんね。


振り返ることさえ嫌な記憶

キム・ハクスン

1924年、中国吉林省で生まれ、生後3ヶ月もたたないときに父親に先立たれ、母と平壌ピョンヤン)に戻ってきた。その後義父に育てられ、15歳のときに平壌の券番(訳者注:キーセンの組合で、キーセンを養成する機関でもあった)に加入し、17歳で卒業した。しかしまだ若すぎてキーセン(遊女)として活動はできなかったため、中国に渡ったが、北京に着いてすぐに軍部隊に連れて行かれ、慰安婦としての生活が始まった。

吉林に生まれ

生まれは満州吉林省。母から聞いた話によると、母は15歳のときに父と結婚し、平壌に住んでいたが、日本人に苦しめられ、中国に避難したという。母は中国でわたしを1924年に産み、その後3ヶ月足らずで父が亡くなった。なぜ亡くなったのはよく知らない。知り合いもいない他所の地で女性ひとりで生きていくのがこわくて、2歳のわたしを連れて平壌に戻ったという。
平壌の実家に戻ったものの、ほとんど物乞いをするようにして食いつないでいったようだ。母は拠り所がなかったからか、教会に熱心に通っていた。小さいとき、わたしも母に連れられて教会に行っていたことを覚えている。神父様がかわいがってくれたし、教会で賛美歌を歌うのも楽しくて、わたしも熱心に通っていた。
小さいときから頑固な性格で言うことをよく聞かないと母からよく叱られていた。わたしが言うことを聞かないと、母は「父親を殺して生まれてきた」とか「お前の父親はわたしをわずらわしくして気苦労がたえなかったけど、お前も父親に似たのかい」などと言いながら嘆いていた。
平壌にある教会が運営する学校に4年ぐらい通った。学費は無料だった。たしか11歳のときまで通っていた。学校では勉強したりかけっこをしたり、友達とも遊べたので楽しく過ごした。走るのが速かったのでリレーの選手だった。これまで生きてきてこのときのことが一番幸せな記憶として残っている。勉強したいときに勉強し、遊びたいときに遊んだときだった。
母は他所の家で家政婦として働いたり、朝お弁当を持っていき、よその畑仕事を手伝ったり、洗濯をしたりしていた。そうしてわたしが学校に通い始めたころは、靴下を編む機械を借りて、家で靴下を編んでいた。わたしは学校から帰ってきたら、母の仕事を助けていた。
私が14歳になったとき、母が再婚した。義父はわたしより年上の息子と娘をひとりずつ連れてきた。兄は二十歳ぐらい、姉は16歳だった。姉はまもなく結婚して家を出た。義父と住むのは嫌だったが、兄とはよく遊んだ。

キーセンの家の養女に

母とふたり暮らしだったのが、義父と暮らすようになっていろんなことが不便でたまらなかった。お父さんと呼ぶこともできず、なるべく義父の目につかないように過ごしていた。母にも反抗ばかりしていたので仲違いしてしまった。
母はわたしを、キーセンを育てる家に養女に出した。そのときわたしは15歳。母と一緒にその家に行き、歌を歌ったら合格した。母が義父に40ウォンを出させ、何年かの契約で私をその家に住まわせたのだと思う。わたしも家にいるのが嫌だったので、そのほうがむしろ気が楽だと思ったことを覚えている。
養女に出された家は、平壌キョンジェ里133番地だった。家にはすでにもうひとり養女がいた。わたしよりオンニ(お姉さん)だった。わたしはその家でクムファと呼ばれていた。わたしたちふたりは平壌のキーセン券番に一緒に通っていた。そこは2階建ての家で、門に大きな看板が掲げられ、そこに通っているキーセン志望生は300人もいた。2年ぐらい券番に通いながら、踊りやパンソリ、シジョ(時調、訳者注:韓国の定型詩)などを熱心に学んだ。
券番で卒業証書をもらえれば、正式にキーセンになり、キーセンとして客を取ることができた。しかし19歳にならないと許可がもらえなかった。卒業した年、わたしは17歳で、卒業はしたが、キーセンとしての活動はできなかった。そこで義父はなんとか許可をもらおうと、わたしをあちこち連れて回った。年より発育がよかったので、義父はわたしの歳を実際より上にごまかして紹介したが、お役所では、年が17歳なので許可はできないと言うばかりだった。
国内でキーセンとして働く口がなかったため、義父は、中国に行けばお金を稼げるだろうと考えたようだ。その家で一緒にいたオンニとわたしの二人は、義父について中国に渡った。1941年、17歳のときだった。義父は中国にわたしを連れて行く前に母に連絡し、中国行きを認めてもらった。中国に出発する日、母は黄色いセーターを買って、平壌駅まで見送りに来てくれた。

日本軍に奪われた処女

平壌で列車に乗って新義州(シンウィジュ)からアンドン橋を渡り、山海関に行くとき、義父が日本の憲兵の検問に遭った。義父は憲兵の詰所に連れていかれ、数時間後にようやく出てきた。また列車に乗り込み、何日も過ごした。列車で眠ったり、ときには降りて宿に泊まったりした。北京に行ったら仕事が多いというので、義父はわたしたちを連れて北京に向かった。
北京に着いて食堂でお昼を食べていたら、日本の軍人たちがやってきて義父のことを呼んだ。その中、星二つを付けた将校が、義父に、「朝鮮人か?」と訊いた。義父が「中国に出稼ぎに来た朝鮮人」だと言ったら、将校は、金稼ぎなら朝鮮でやるべきじゃないかと、どうして中国に来たのかと咎め、義父にスパイの疑いをかけてどこかに連れて行ってしまった。
わたしたちふたりは他の軍人たちに連れて行かれた。路地を通ると、屋根のないトラックが1台停まっていた。そこには40人から50人くらいの軍人たちが乗っていた。わたしたちもそのトラックに乗るように言われ、拒んだら両方からつかまれ体が宙に浮き、トラックに乗せられた。少しして義父を連れて行った将校が戻り、トラックが出発した。将校は運転席の隣に乗った。わたしたちはただただ驚き怖くて、トラックでうずくまって泣いていた。みたら、後ろに同じ形のトラックがもう1台ついてきていた。
午後にトラックに乗せられ、一晩が過ぎた。ときどき銃声がした。そんなときは皆降りてトラックの下に体を伏せていた。車の中で1度おにぎりをもらった。軍人たちが乾パンをくれたこともあったが、うずくまって泣いていて見向きもしなかった。次の日、辺りが暗くなった頃、皆が降りた。軍人が数人でわたしたちをどこかの家に連れて行った。中国人が逃げた後の空き家だと、後になって知った。
暗いし何が何だかわからず、その日は、いったいどこなのか見当も付かなかった。わたしたちは部屋に入り、互いに顔を見合わせるばかりだった。まもなく、義父を連れて行った将校が部屋に入ってきて、わたしをカーテンで仕切られた隣の部屋に連れて行った。何をしようとしているのか、それにひとりになるのも怖くて、激しく抵抗したが、力ずくで隣の部屋に連れて行かれた。将校はそこでわたしの服を脱がそうとした。強く抵抗したので、服が破れてしまった。結局わたしはその将校に処女を奪われた。その夜わたしはその将校に2度も辱められた。
翌日、夜が明ける前、将校は部屋を出て行った。わたしは破れた服で体を覆うようにして泣いた。将校は出て行くとき、そんな服はここではもう着ることもないだろうと言った。将校が出て行ってから、カーテンをまくってみた。隣の部屋には黄土色をした軍服を着た男が眠っていて、そのそばで、オンニがやはり破れた服で体を覆って泣いていた。驚いてカーテンを元に戻した。夜が明けて軍人が出て行った後、カーテンを開けて隣の部屋からオンニがやってきた。ただただ呆然として悲しくて、抱き合って声を上げて泣いた。オンニも抵抗して体のあちこちを殴られたという。わたしも将校に抵抗するのに夢中で、隣で何が起こっているのか気づかなかった。

酷かった慰安婦生活

少しして、外から女の人たちの声が聞こえてきた。朝鮮語だった。女性がひとり扉を開けて入ってきて「ここにはどういう経緯で来たの?」と訊かれた。オンニが事情を説明したところ、「来てしまったんだから仕方ない。ここからは逃げられないよ。運命だと思って過ごすんだね」と言われた。その日、カーテンで仕切られた2つの部屋にそれぞれひとつずつ木でつくったベッドが軍人たちによって運ばれてきた。私たちは部屋をひとつずつ割り当てられ、そこで過ごすことになった。
わたしたちがいた家は、門がふたつもあった、赤レンガの家だった。家の隣には軍部隊があった。後で軍人たちの話を聞いたところによると、そこは鉄壁鎮という所だという。わたしたちがいたのは中国人の住む村だったが、日本の軍隊だったからか中国人は見かけたことはなかった。
家にいたのは女性5人だけだった。22歳のシズエが一番年上で、ミヤコとサダコは19歳だと言った。シズエはわたしとオンニに日本の名前をつけてくれた。わたしはアイコ、オンニはエミコだった。米と食材は隣の部隊から軍人たちが運んできてくれた。食事はひとりずつ順番でつくった。とはいえわたしが一番年下だったので、洗濯と食事当番を一番多くやった。ときどき、軍人たちに、ご飯を持ってきてくるようにたのむと、自分たちが食べるご飯と汁物を持ってきてくれた。乾パンのようなものも密かに持ってきてくれた。服は、軍人たちが着古した木綿の下着のようなものを着た。ときどき中国人が置いていった服を軍人たちが持ってきてくれ、それを着たりもした。
シズエは日本語がとても上手だった。彼女は主に将校を相手にした。ミヤコとサダコは自分たちが先に来ていたからか、自分たちが相手にするのが嫌な手荒い軍人を私たちに回していた。同じ境遇なのに、後から来たという理由でないがしろにされているようで不愉快だったので、ふたりとはあまり親しくなかった。シズエはソウルから来たというが、ミヤコとサダコとはあまり付き合いがなかったので、そのふたりはどこから来たのか、どうしてここにやって来たのかはわからない。
家には部屋が5つあった。部屋には毛布が敷かれたベッドがあり、扉の横には洗面器が置いてあった。シズエはわたしたちに消毒水の入った瓶を一本ずつくれた。それを洗面器の水にたらすと水がピンク色に変わるのだが、軍人たちとの性交の後はその水で消毒するようにということだった。
わたしたちを直接管理する人はいなかったが、部隊がすぐ隣にあったので、わたしたちが外に出ようとすると、番兵に、どこに行くのか訊かれた。でも実際は地理がまったく分からなかったので、どこかに行こうにも行けなかった。軍人たちは、家にやってきて、入りたい部屋に入った。ひと月ほど過ごしたら、やってくる顔ぶれがいつも同じで、新しい人が来ることはなかった。この人たちの専属なのかと思ったりもした。
軍人たちは討伐によく行った。週に3、4日は夜討伐に出て、未明に戻ってきていた。討伐から戻ってくるときは軍人たちは歌いながら行進してきた。そうするとわたしたちも起きていなければならなかった。普通軍人たちは午後やってくるのだが、討伐から戻ってきた日は朝からやってくるからだ。そんな日は7、8人は相手にしなければならなかった。
午後、軍人たちは、やってくるとひとり当り30分ぐらい過ごしていった。夕方来るときは酒を飲んでくるので歌を歌えとか踊りを踊れなどと言い出し、とても煩わしかった。そういうときは裏庭に隠れた。ただ、軍人に見つかり部屋に連れて行かれると、普段より乱暴に扱われた。
軍人たちは入りたい部屋に入るので、顔ぶれはいつもほとんど同じだった。誰もが30分ぐらい過ごして行ったが、その間ぐったりするくらい攻め立てる軍人がいた反面、おとなしく座っているだけの人もいた。私の頭を押さえつけ、股の間を舐めろという軍人もいたし、事が終わったら洗面器の水で自分の性器を洗ってほしいという軍人もいた。反吐が出るほど嫌でも、抵抗しようものなら容赦なく殴られた。
軍人たちは自分たちでサックを持ってきた。私たちに配当されたサックはなかった。週に1度、後方から軍医が兵士を連れてきて検査をした。忙しくてできない週もあった。軍医が来ると言われると、消毒薬で特に念入りに拭いた。診察で少しでも異常があったら、軍医から黄色い色をした606号注射を打たれた。それを打たれてげっぷをすると、鼻に臭いが上がってきて、なんとも嫌な気分だった。
生理のときは、軍医にもらって集めておいた脱脂綿を使った。生理のときも軍人の相手をしなければならなかった。嫌でも、軍人たちがやってくるので仕方なかった。脱脂綿を丸めて血が外に出てこないように深く押し入れた。そうすると後で脱脂綿がなかなか出てこなくて、大変なときもあった。集めておいた脱脂綿がなかったら、布を切って小さく丸めて入れたりもした。
軍人たちが来ない午前中は、洗濯したり、皆で真ん中の部屋に集まって話をしたりもしたが、わたしは従順な性格ではなかったし、どうすれば逃げられるかということばかり考えていたので、エミコオンニ以外の人とは仲が良くなかった。
わたしたちのところにやってくる軍人たちは部隊から許可を得て来るようだった。初めは軍人たちがお金を置いていくのかどうかわからなかったが、ある日シズエが、兵士は1円50銭、将校が泊まっていくときは8円を出さなければいけないと言っていた。でもわたしは慰安婦生活をやめるときまで、軍人たちからお金をもらったことはなかった。シズエが何の根拠でそんなことを言っていたのかわからない。
ある日朝ご飯を食べていたら、部隊の軍人がやってきて、早く荷造りをしろと言ってきた。服をまとめていたら、早く出てきて車に乗れと急かせるので、あたふたと乗り込み、そこを離れた。そこに住み始めて2ヶ月過ぎた頃のことだった。2台のトラックにはすでに軍人たちが皆乗っていた。将校は長い刀を腰に差し、馬に乗っていた。日の沈む前に新しい所に着いた。最初にいた所とそう離れてはいなかったが、もっと田舎のように見えた。最初にいた所より銃声がもっとたくさん聞こえた。
今回の慰安所は、前の所より小さかった。部屋はカーテンで仕切られているのではなく、壁で分かれていた。
生活は変わらなかった。でもわたしたちの所にやってくる軍人の数が少し減ったように思えた。軍人が討伐に出る回数がもっと増え、朝わたしたちの所にやってくるときに酒瓶を持ってくる軍人も多かった。前にいた所より、自分の生活が惨めに感じられた。
ここに来てからも、どうすれば脱出できるかばかり考えていた。エミコオンニと逃げ道をいろいろ考えてみたが、土地勘がまったくなかったので、どこに行けばいいのか皆目見当もつかなかった。逃げるときはいっしょに逃げようとオンニと約束した。シズエはわたしより年上で面倒見のいい人だったが、一番気持ちが通じ合えたのはエミコオンニだったからだ。

銀貨両替商との脱出

新しい所に移ってきてひと月少し過ぎた頃、40歳くらいに見える朝鮮人の男がわたしの部屋にやってきた。もともと軍人以外は入れないのだが、男はここに朝鮮人の女性がいることを聞いて、軍人たちが討伐に出ているとき、番兵の目を盗んで入ってきたと言う。朝鮮から来た銀貨両替人だと自分のことを紹介した。わたしは朝鮮人に会えた嬉しさ半分、不安な気持ち半分で、「朝鮮人ならわたしを連れて行って」とたのんだ。朝鮮人も日本人も男は皆同じなのだろう。この男もわたしの体で自分の性欲を満たした。そうして男がひとりで帰ろうとしたので、このまま帰るなんてひどいじゃないか、このまま帰るなら大声を出すと言って男を引きとめた。隣の部屋に聞こえないように小さな声で話した。隣の部屋のエミコオンニに聞かれ、自分も一緒に逃げると言い出したら、軍人たちに見つかってしまうのではないかと思ったからだ。男はわたしに、どうしてここに連れてこられたのか、年はいくつか、と聞いてきた。自分は1ヵ所にとどまるのではなく中国中を転々としているので、ついてきたらつらいだろうし危ないだろうと言った。わたしは、ついて行って途中で死んでもいいし、ついていけなさそうだったら置き去りにしてもいいから、連れて行ってほしいと哀願した。
正確な時間は分からないが、わたしがその人と慰安所を脱け出したのは午前2時、3時ぐらいだったと思う。持って行くものもなかったが、何も持たずに出た。夢中だったので、どうやって部隊のある路地を抜け出したのかはまったく覚えていない。軍人たちが皆討伐に出たとしても番兵はいただろうに、見つからなかったのは天の助けがあったのだろう。
北京から連れて来られて4ヶ月ぶりに、そこから脱け出すことができた。すでに夏が過ぎ、季節は秋になろうとしていた。男は、中国人が逃げた空き家に入り、服を出してきて、わたしに着るように言った。道にも詳しかったし、空いている家もうまく探し出した。中国語も上手で、中国人になりすましたこともよくあった。わたしは中国語もできず、捕まるのではないかと怖くて、男の背中に隠れるようにして、ただただついていくだけだった。男は他人にわたしのことを妻だと紹介した。平壌で光成(クァンソン)高等普通学校を卒業し、平壌南道大同(テドン)郡南兄弟山(ナムヒョンジェサン)面出身だった。故郷に息子がいるという。日本語も上手で字もうまかった。平壌に帰ろうと言ったら、自分は平壌には帰れないと言った。理由は話してくれなかった。
男は中国全土の地理に明るいようだった。蘇州、北京、南京などいろいろな所を転々とした。何の仕事をしている人なのか正確にはわからなかった。中国人の依頼を受け阿片の仲介人の仕事をしているようだった。
1942年、18歳の冬、子どもができた。子どもを生むには定住しなければと、上海に住むことにした。上海で降りて黄浦江の橋を渡りフランス租界に住んだ。日本やイギリスの租界は襲われて不安だからと、フランス租界に行ったのだ。
19歳になった年、旧暦の9月20日に最初の子が生まれた。女の子だった。その後1945年、21歳になった年の1月に男の子が生まれた。ふたりとも上海で産んだ。そこでソンジョン洋行という質屋をやっていた。中国人の資金で経営していた。お金を貸すこともあった。利益は、資金を出した中国人と分けた。商売はそれなりにうまくいっていた。

歓迎してくれる人のいない故国へ

植民地から解放され、ユ・イルピョンという居留民団長が、朝鮮に帰る人は船に乗ればいいと教えてくれた。わたしたちはそこから1946年6月に船に乗って韓国にやってきた。2階建ての大きな船に、光復軍(訳者注:中華民国の臨時首都、重慶で創立された大韓民国臨時政府の軍隊)も一緒に乗っていた。そのときの船代は大人が1000ウォン、子どもは500ウォンだった。3000ウォンを払ってわたしたち4人家族は船に乗った。
船が仁川(インチョン)に着いた。コレラ患者が出たということですぐには降りれず、船で26日間待機した。降りてからはソウルの奨忠壇(チャンチュンダン)収容所で3ヶ月過ごした。そこで長女がコレラで死んだ。だいぶ寒くなって、夫が部屋を探すために知人を訪ね回った。知人の家に部屋をひとつ借りて、10月に収容所を出た。

幸薄な人生

わたしは野菜を売り、夫は工事現場で働いて生活した。朝鮮戦争後は夫が代書屋をしながら通い帳で掛買いもした。軍部隊に食材を納品する仕事もした。ある日、部隊に納品するために検査を受けに行ったとき、そこの家が崩れ落ち、夫が下敷きになったと、誰かが知らせてくれた。急いで駆けつけると、その家の屋根が、この何日かの雨に耐えられず崩れてしまったという。人がたくさん下敷きになった。即死した人もいたし、血だらけになって息絶え絶えの人もいた。夫は赤十字病院に運ばれたが、50日後に死んだ。
夫とはいうものの、一緒に暮らしながら気苦労が多かった。慰安婦だったことを知っているので、お酒を飲んで虫の居所が悪いときは、人を傷つけるようなことをよく言った。平壌に戻ってからは夫がそばに来るのも嫌だったし、自分自身が惨めに思えて言うことを聞かなかったので、余計にひどいことを言われていた。息子の前で、汚い女だとか、娼婦だとか言われ、自分の運命が恨めしかった。
夫を火葬し息子とふたりで暮らした。気苦労がひどかったので、夫が死んでもそう悲しくはなかった。わたしは工場からメリヤスをを持ってきて、江原道などを回りながら、店に売っていた。一度江原道に行くと数日は家を空けるので、束草(ソクチョ)で貧しい家の子を一人連れてきて息子といっしょに過ごすようにした。息子が小学4年生のとき、海を見せてあげたくて、夏休みに江原道に連れてきた。息子はそのとき海で泳いでいて、心臓マヒで死んだ。親だけでなく、夫も、その上息子まで、なんて運がないんだろうと思い、死にたくなった。
何度も死のうとして、薬を飲んだが死ねなかった。1961年、何の当てもなく全羅道に行き、そこで手当たり次第仕事をしながら、タバコと酒に溺れて20年を過ごした。だけどいつまでもふらふらしている自分があまりにも惨めで情けなくて、こんな生き方ではいけないと思い、ソウルに上がってきた。全羅道で知人が紹介してくれた家で住み込みで家政婦の仕事をしながら7年を過ごした。動悸が激しくて仕事をするのがきつくなったので、87年にその家を出た。そのとき貯めたお金で、いま住んでいる部屋を借りた。
町役場で斡旋してもらった就労事業に参加していて、偶然、被爆した年配の女性に出会った。日本には恨みもあるし、私の人生が惨めで、誰かに話を聞いてもらいたかったので、その女性に慰安婦だったことを話した。韓国で初めての慰安婦証言者だということで、いろいろなところから呼ばれて話をした。そのときの記憶を反芻するのはとてもつらい。
どうしてわたしは他の人と同じように堂々と生きてこれなかったのか。「あの人はわたしのように生きてこなかっただろう」と、他の年寄りと私のことをついつい比較してしまう。わたしの貞操を奪い、わたしをこんなにした奴らを八つ裂きにしてやりたい気持ちもある。でもそれをしたとしても、わたしの恨み、悔しさ、憤りは鎮めることができないだろう。もうこれ以上私の記憶を明かしたくもない。韓国政府だって日本政府だって、死んでしまえばおしまいのわたしのような女の惨めな一生に、何の関心があろうかと思う。

http://www.hermuseum.go.kr/japan/sub.asp?pid=124

*1:そもそも妓生を名乗る売春婦が増えるのは、日本植民地下で妓生が公娼制度に組み込まれていくからです。

*2:そもそも親や義父から買い取ったのかどうかも明確ではありませんが。