さすがに週明けには外務大臣あたりに記者会見で質問されても良さそうな状況になってきた

産経新聞の差別コラムの件。
というだけでは、差別記事ばかりの産経のどの記事のことか、わからないでしょうから正確に言うと、2015年2月11日の曽野綾子氏の記事のことです。
2月13日にNPO アフリカ日本協議会から、2月14日までに南アフリカ共和国駐日大使館から抗議が来たこと(2月13日付)で、ようやく毎日・産経で問題として報道されました。これは全国紙としては早い方(産経は当事者だから当然ですが)ですが、海外メディアの反応に比べればいかにも遅い反応です。
日本国内のメディアは国内での差別問題に対して、自身で差別か否かを判断することにとても臆病ですね。他者が差別だと言い出してからようやく「そうだ、そうだ」と同調し始めるか、あるいは“差別だと主張する者がいる”という他人事感たっぷりの報道を行なうかしかしませんからねぇ。

2015.2.14 19:50更新

曽野氏コラムで南ア駐日大使が本紙に抗議

 産経新聞に掲載された作家、曽野綾子氏のコラムをめぐり、南アフリカのモハウ・ペコ駐日大使は14日までに、産経新聞社宛てに抗議文を送付した。
 ペコ大使が問題視しているのは、2月11日付で掲載されたコラム「曽野綾子の透明な歳月の光」。「労働力不足と移民」と題した中で、介護の労働移民について条件付きでの受け入れを提示したほか、南アフリカで人種差別が廃止されても生活習慣の違いから分かれて住むようになった例を挙げ、住まいは別にした方がいいとの考えを述べた。
 これについてペコ大使は「アパルトヘイト(人種隔離)を許容し、美化した。行き過ぎた、恥ずべき提案」と指摘。アパルトヘイトの歴史をひもとき、「政策は人道に対する犯罪。21世紀において正当化されるべきではなく、世界中のどの国でも、肌の色やほかの分類基準によって他者を差別してはならない」としている。
 NPO法人「アフリカ日本協議会」も産経新聞社と曽野氏に抗議している。
 曽野綾子氏「私は文章の中でアパルトヘイト政策を日本で行うよう提唱してなどいません。生活習慣の違う人間が一緒に住むことは難しい、という個人の経験を書いているだけです」
 小林毅産経新聞執行役員東京編集局長 「当該記事は曽野綾子氏の常設コラムで、曽野氏ご本人の意見として掲載しました。コラムについてさまざまなご意見があるのは当然のことと考えております。産経新聞は、一貫してアパルトヘイトはもとより、人種差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」

http://www.sankei.com/life/news/150215/lif1502150017-n1.html

産経新聞は、抗議に対して謝罪する気も訂正する気もないようです。
しかも表現も少し改変していますね。
元の曽野コラムでは「私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」と書かれていますが、上記産経記事では「住まいは別にした方がいいとの考え」という表現になっています。

産経言い訳 曽野コラム
介護の労働移民について条件付きでの受け入れを提示 移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。
人種差別が廃止されても生活習慣の違いから分かれて住むようになった例 黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。 白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画に、20〜30人が住みだしたのである。 住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、1戸あたり常識的な人数の使う水量しか確保されていない。 間もなくそのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。
住まいは別にした方がいいとの考え 私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。

“移民としての法的身分は厳重に守らせる”が“条件付きでの受け入れ”という曖昧な表現になり、“白人が逃げ出した”が“分かれて住むようになった”と穏便・自主的な転居であるかのように偽装し、“居住区は分けたほうがいい”というゲットー思想が“住まいは別にした方がいい”とまるで二世帯住宅程度の話にされています。
産経新聞が改ざんするのはいつものことですか、三日前の自社の記事すら改ざんするというのは大したものですね。

そもそもアフリカ日本協議会の抗議にも「「居住区を分ける」ことを提案する曽野氏の主張は、アパルトヘイトの労働力管理システムと同じ」と明確に書かれているのに、表現を変えて韜晦するというのは根性が曲がっているとしか言いようがありません。

 「アパルトヘイト」は現地の言葉で「隔離」を意味し、人種ごとに居住区を分けることがすべてのアパルトヘイト政策の根幹にありました。また、アパルトヘイトは、特権をもつ一部の集団が、権利を剥奪された他の集団を、必要なぶんだけ労働力として利用しつつ、居住区は別に指定して自分たちの生活空間から排除するという、労働力管理システムでもありました。移民労働者の導入にからめて「居住区を分ける」ことを提案する曽野氏の主張は、アパルトヘイトの労働力管理システムと同じです。国際社会から「人道に対する罪」と強く非難されてきたアパルトヘイトを擁護し、さらにそれを日本でも導入せよとの曽野氏の主張は言語道断であり、強く抗議いたします。このような考え方は国際社会の一員としても恥ずべきものです。

http://www.ajf.gr.jp/lang_ja/archives/sonoayako-sankei20150211.html

産経新聞は、一貫してアパルトヘイトはもとより、人種差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」(笑)

嘘つけ、としか。

他の差別記事やヘイト満載の川柳掲載とかもありますが、「「適度な距離」保ち受け入れを」というタイトルで「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」という結語を述べているコラムを掲載しといて、“産経新聞アパルトヘイトは許されるものではない”、とか面の皮が厚いにも程がありますね。

曽野「私は文章の中でアパルトヘイト政策を日本で行うよう提唱してなどいません。生活習慣の違う人間が一緒に住むことは難しい、という個人の経験を書いているだけです」

これも嘘つけ、としか。

「労働力不足と移民」「「適度な距離」保ち受け入れを」というタイトルで、「南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。」と書き、「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」と締めくくるコラムが、アパルトヘイトの提唱でなくて何なのでしょうか。
「生活習慣の違う人間が一緒に住むことは難しい」とか、まるで同じ家に住むかどうかという話をしていたかのように改変するのも卑怯な逃げ方で「私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」という「居住区」の言い回しを避けて誤魔化そうとしているとしか思えません。
アフリカ日本協議会の抗議にはっきりと「移民労働者の導入にからめて「居住区を分ける」ことを提案する曽野氏の主張は、アパルトヘイトの労働力管理システムと同じ」と書かれたことから、「居住区」という文言を避けて、「一緒に住むこと」にすりかえようとしているのでしょう。

曽野綾子の透明な歳月の光
労働力不足と移民

「適度な距離」保ち受け入れを

 最近の「イスラム国」の問題など見ていると、つくづく他民族の心情や文化を理解するのはむずかしい、と思う。一方で若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めねばならないという立場に追い込まれている。
特に高齢者の介護のための人手を補充する労働移民には、今よりもっと資格だの語学力だのといった分野のバリアは、取り除かねばならない。つまり高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くないのだ。
 どこの国にも、孫が祖母の面倒を見るという家族の構図はよくある。孫には衛生上の専門的な知識もない。しかし優しければそれでいいのだ。
 「おばあちゃん、これ食べるか?」
 という程度の日本語なら、語学の訓練など全く受けていない外国人の娘さんでも、2、3日で覚えられる。日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ。
 しかし同時に、移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らねばならない。条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。不法滞在という状態を避けなければ、移民の受け入れも、結局のところは長続きしない。
 ここまで書いてきたこと矛盾するようだが、外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。
 もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。
 南アのヨハネスブルグに一軒のマンションがあった。以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。ところがこの共同生活は間もなく破綻した。
 黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。
 白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画に、20〜30人が住みだしたのである。
 住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、1戸あたり常識的な人数の使う水量しか確保されていない。
 間もなくそのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。
 爾来、私は言っている。
 「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」

http://www.buzznews.jp/?p=1036768