馬英九演説の日本での報道のされ方について

2015年9月2日に台湾の馬英九総統による演説があり、日本でも以下のような報道がされました。

産経新聞

2015.9.2 22:33更新
【抗日70年行事】

台湾の馬総統、「抗日戦は国民政府が主導」と改めて強調 「抗日」喧伝の中国当局に「遺憾」表明

 【台北=田中靖人】台湾の馬英九総統は2日、対日戦争勝利記念日としている3日を前に台北市内の国防部(国防省に相当)で開かれた式典で演説し、「中国共産党が抗日戦争を主導したと自称するのは非常に遺憾だ」と述べ、日中戦争中華民国政府が主導したと改めて強調した。
 馬総統は、共産党が参戦したことを「否定したことはない」としつつも、共産党軍は日本軍との正面作戦を避けて兵力を温存し、支配地域拡大のため「国軍(中国国民党軍)」を攻撃することさえあったと指摘。中国当局に対し「抗日戦争は国民政府が主導し、共産党は補助的に参加した」と公式に表明するよう呼びかけた。
 式典には、国民党軍の元兵士8人やルーズベルト米大統領の孫らも参加した。

http://www.sankei.com/world/news/150902/wor1509020036-n1.html

日経新聞

台湾でも抗日記念式典 馬総統、国民党の貢献強調

2015/9/2 18:59記事保存
 【台北=山下和成】台湾の馬英九政権(国民党)は2日、「抗日戦争勝利70周年」の記念式典を台北市内の国防部(国防省)の庁舎内で開いた。元軍人など約1200人が参加した。馬総統は抗日戦争について、「正面・後方の戦場のいずれも国民(党)政府が主導した」と述べ、真に貢献したのは中国・共産党でなく国民党だと強調した。
 日中戦争当時に中国大陸で「中華民国」を統治していた国民党は日本軍と戦い、その後の内戦で共産党に敗れて1949年に台湾に逃れた。中国政府に対抗する意味もあり、今年は抗日記念行事に積極的だ。
 一方、台湾では戦前からの台湾住民とその子孫が8割超を占める。台湾は戦前は日本統治下にあった。戦後に中国から渡ってきた国民党が主導し、「抗日勝利」の記念行事を開くことに違和感を唱える声もある。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM02H5P_S5A900C1FF2000/

時事通信

抗日戦、中国主導は「遺憾」=戦勝70年式典で−台湾総統

 【台北時事】台湾の馬英九総統は2日、抗日戦勝70年の記念式典で演説し、「中国共産党は抗日戦を主導したと主張しているが、当時の中華民国政府(国民党)が軍、人民を率いた8年間の抗日戦の歴史と貢献を無視しており、非常に遺憾である」と述べた。
 馬総統は中国共産党について、「抗日戦に参加したことは否定しないが、補助的な地位だった」と指摘。「正面でも敵後でも、戦場では中華民国政府が一貫して主導的な立場にいた」と強調した。3日に北京で抗日戦勝記念の軍事パレードを実施するなど、国際社会に向けて抗日戦を主導したとアピールする中国共産党をけん制した形だ。(2015/09/02-19:13)

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201509/2015090200760

毎日新聞

台湾:「抗日戦主導は国民党」 式典で馬総統、中国けん制

毎日新聞 2015年09月02日 21時04分(最終更新 09月02日 21時31分)
 【台北・鈴木玲子】台湾で2日、「抗日戦争勝利70周年記念」式典が行われた。中台間では共産党と国民党の「どちらが抗日戦を主導したのか」との論争が続いているが、馬英九総統はあいさつで「共産党の参戦を否定したことはないが、主導的ではなく、補助的な役割だったことは事実だ」と強調した。
 中国が3日に戦勝を記念した大規模な軍事パレードを実施するのを前に、抗日戦の主役の座を奪われないよう、中国をけん制する狙いがあったとみられる。
 式典は、3日の台湾の「軍人デー」に合わせて国防部(国防省)で開催された。日中戦争に参戦した国民党の老兵8人が招待され、馬総統から功績をたたえる記念章が授与された。ルーズベルト米大統領の孫ら、抗日戦に協力した外国人とその子孫も招かれた。
 また、馬総統は「(終戦まで)台湾は日本の植民地だったが、忠誠を尽くした祖国は日本ではない。台湾同胞の抗日の決意は確固たるもので、台湾の主体性を示していた」と強調した。李登輝元総統が「台湾が日本と戦った(抗日)という事実はない」とした発言への反論とみられる。

http://mainichi.jp/select/news/20150903k0000m030073000c.html

報道内容について

朝日・読売の報道はWeb上では見当たりませんでした。

  内容                 産経 日経 時事 毎日
1  抗日戦を主導したのは国民党       ○  ○  ○  ○ 
2  中共の主張は遺憾            ○  ×  ○  × 
3  中共が抗日戦に参加したことは否定しない ○  ×  ○  ○ 
4  中共国府を攻撃したこともあった    ○  ×  ×  × 
5  国府が主導、中共は補助的        ○  ×  ○  ○ 
6  正面でも敵後でも国府が主導       ×  ○  ○  × 
7  台湾同胞の抗日の決意は確固たるもの   ×  ×  ×  ○ 

「1.抗日戦を主導したのは国民党」については、前記事で書いた通り、1995年頃から中共は正面戦場で国民党が主導したという認識を容認しています。
「2.中共の主張は遺憾」については、原文は「長期以來,中共自稱領導抗戰,共軍是「中流砥柱」,忽視當年國民政府領導全國軍民八年抗戰的歷史與貢獻,我們感到非常遺憾。」*1であって、その後の段落で「十年前,抗戰勝利60週年的時候,中共曾經把抗戰劃分為「正面戰場」及「敵後戰場」,肯定國民政府領導正面戰場,但強調共軍在敵後戰場的貢獻。」とも述べていること*2から、過去の中共の主張に対する発言のようにも思えます。
「3.中共が抗日戦に参加したことは否定しない」については微妙な言い回しで、蒋介石時代の国民党は日中戦争における中共の貢献を徹底的にこき下ろしていましたので、文意から素直に解釈すると、国民党の過去の反共的な歴史認識を無かったことにしているように感じます。
「4.中共国府を攻撃したこともあった」については、「此後,中共就轉往敵後從事游擊戰,如所謂「百團大戰」,採取儘量避免與日軍正面作戰策略,保存實力,併吞地方部隊,甚至攻擊國軍,擴大地盤。」と書かれた部分ですが、ここは蒋介石時代の史観をそのまま引き継いでいるかのような偏った記述と言えます。国府軍が大軍を割いて延安を包囲していたことや皖南事変については全く言及していませんし、戦力を温存したという指摘が戦争後期における国府軍にも当てはまることにも触れていません*3
「5.国府が主導、中共は補助的」については、正規戦を主導、遊撃戦を補助とみなすなら、そういう理解もできなくはありませんが、その「補助的」な遊撃戦が華北において、30万人以上の日本軍(北支那方面軍)を拘置していたことは低く評価すべきではないでしょう。
「6.正面でも敵後でも国府が主導」については、あまり知られていないものの、戦争前半は国府軍も遊撃戦を主要な戦略の一つに位置づけ、敵後方戦場における遊撃戦も活発に行っています。ですが、国府系の遊撃隊は徐々に減退し、代わりに中共系の遊撃隊の方が発展し、戦争後半において敵後方戦場における遊撃戦を主導したのは紛れも無く中共軍でした。

中共政府が中共政府の立場から大きく外れられないように、国府にも国府の立場から大きく外れられない制約はあるのでしょうから、馬英九総統の発言は台湾総統としての発言ではあるのでしょうね。
しかしながら、正面戦場と後方戦場に分け国府中共がそれぞれ主導したとする見解に転換した中共に対して、国府側の見解は余りにも教条的な感が否めません。

最後に「7.台湾同胞の抗日の決意は確固たるもの」については、産経・日経・時事ともに上記引用記事では報道しておらず、毎日のみが報じています。
実は、中共歴史認識に対する言及と同程度に言及されていたのが、台湾同胞は大陸人民よりも少なくとも30年は早く抗日を始めた、という台湾人自身の抗日運動に対する言及でした。
上記引用記事では、毎日新聞しか報じていませんし、それも付け足し程度の記載ですが、結構しっかりと言及されています。

 第三,我想與各位談談臺灣人民的抗日與抗戰。歷史上,臺灣人民的抗日與抗戰,要比大陸人民至少早30年。我們先從抗日談起。1894年甲午戰爭清廷戰敗,次年被迫簽訂《馬關條約》,割讓臺灣給日本,消息傳出,舉國震驚,全臺悲憤。當年進京趕考的全國舉人「不畏斧鉞之誅」,以「公車上書」提出「棄臺民即散天下」的警告。臺籍進士丘逢甲的著名詩句「宰相有權能割地,孤臣無力可回天」,以及次年又寫下的「四百萬人同一哭,去年今日割臺灣」,充分反映了當時臺灣人的痛心與無奈。臺灣反侵略、反殖民的武裝抗日行動,從1895年5月,日軍在北臺灣澳底登陸就開始,到1915年臺南爆發的「噍吧哖(西來庵)事件」,已長達20年之久,之後再轉為非武裝抗日。這在世界殖民史上,是相當罕見的抗爭實例。
 抗日先烈先賢中,包括成立「臺灣民主國」的丘逢甲、劉永福;組織新竹義勇軍的吳湯興、徐驤、姜紹祖;台中的林朝棟;彰化的吳彭年、雲林的李品三、屏東的蕭光明;領導游擊戰的「抗日三猛」林少貓、簡大獅、柯鐵虎;發動臺南「噍吧哖事件」的余清芳、羅俊、江定;主導「霧社事件」的原住民莫那魯道;在民國成立後返臺參與或協助起義的羅福星、林祖密等,這些先烈先賢的抗日行動,我們永遠不會忘記。在日軍據臺的第一年,各地激戰連連,日軍費時6月、多次筯兵才結束「乙未戰爭」。日本的近衛師團長北白川宮能久親王(中將)以及近衛步兵第2旅團長山根信成少將都在戰爭中死亡,戰鬥情況激烈得無法想像,根據學者估計,臺灣軍民死亡人數超過十萬人。日本總督府民政長官後藤新平1921年所寫的《日本殖民政策一斑》一書中也曾坦承,光是1898年到1902年,就利用總督府頒布的「匪徒刑罰令」誘殺了臺灣抗日志士達11,950人。
 日本開始殖民統治後,臺灣抗日行動一直持續,除了武裝抗日外,還有以新聞、教育、文化等方式,推動非武裝抗日、爭取自治民主、設立議會的先進,包括林獻堂、蔣渭水、廖進平、翁俊明、連雅堂、蔡培火、簡吉等以及後期的蔡忠恕、李建興等的地下運動。臺灣的抗日運動,不但持久,而且波瀾壯闊,令人動容。
 再談抗戰。抗戰時期,李友邦將軍組編「臺灣義勇隊」在閩浙沿海游擊抗日;翁俊明領導「臺灣革命同盟會」;李萬居等臺籍人士參與「國際問題研究所」;丘念台組織廣東「東區服務隊」;林正亨加入緬甸遠征軍;謝東閔、黃朝琴、連震東等先賢也貢獻心力,他們志在光復臺灣,同樣令人感動不已。
 先烈先賢的做法雖各有不同,但都志在追求自由與民主。更重要的是,他們都證明:臺灣當時雖然是日本殖民地,但他們效忠的祖國並不是日本。臺灣同胞抗日決心非常堅定,充分展現了臺灣的主體性。
 最近,國內關於臺灣人的抗日與抗戰有一些討論。對此,我必須表達我的態度:我絕對尊重不同族群的歷史記憶,也明白在歷史格局當中,人民面對時代與命運,有許多無奈與感傷。但是,臺灣多少前輩,前仆後繼,為了反侵略與反殖民付出心血、甚至生命,史實俱在,不容選擇性遺忘,更不能讓子孫不知道這一段重要的歷史。如同于右任先生的詩句:「不容青史盡成灰」,這就是我的基本態度,也是中華民國面對國史應有的態度。而我們講述這段歷史,是為先烈先賢發聲,也讓當代社會對這段重要歷史留下見證,這是我無可迴避的職責。
 8月14日,日本安倍晉三首相發表戰後七十周年談話,提及日本「侵略」與「殖民」的錯誤,以及日本「對婦女尊嚴與榮譽的嚴重侵害」。中華民國政府相信日本願意反省檢討,但更希望日本未來能夠做得更多、更好。

http://www.president.gov.tw/Default.aspx?tabid=131&itemid=35534&rmid=514

実は、産経新聞は上記引用記事とは別に、台湾人の抗日運動部分を非難するための別記事を書いています。要するに、馬英九演説に関する記事を中共批判に利用する部分と、台湾の抗日運動の部分に分けて、前者を中共批判に、後者を馬政権批判に利用しているわけです。

2015.9.4 07:45更新

【外信コラム】台湾有情 都合良い「歴史の真実」

 馬英九総統が2日、「抗日戦争勝利70周年」の式典で行った演説に、ふと首をかしげた。「台湾人民の抗日と抗戦」という表現で、日本統治時代の台湾の抗日運動と日中戦争を結びつけていたからだ。
 馬総統は、1895年の下関条約で日本に割譲された台湾の平定を「侵略」と表現。半世紀に及ぶ統治時代に武装蜂起した人々の名前を挙げて称賛し、続けて「抗戦時期」、つまり1937年以降に台湾出身者が中国大陸沿岸部で行ったゲリラ戦を、日中戦争の一部に位置付けた。その上で、「(抗日の)烈士らが忠誠を尽くした祖国は日本ではない」と力を込めた。
 李登輝元総統が先月、日本の月刊誌で一連の抗日戦記念活動を批判し「当時われわれ兄弟は紛れもなく『日本人』として、祖国のために戦った」と述べたことへの反論なのだろう。だが、名前を挙げた30年の抗日武装暴動「霧社事件」の首謀者モーナ・ルダオは山岳地の先住民。「忠誠を尽くした」のは確かに日本ではないが、馬総統が強調する日中戦争の当事者「中華民国」であるはずもない。
 「抗日」なら誰でも評価するという姿勢は、ご都合主義にしか見えない。中国共産党に「歴史の真実を正視せよ」と呼びかけている割にはずいぶんと荒っぽい論理に、違和感を覚えた。(田中靖人)

http://www.sankei.com/column/news/150904/clm1509040004-n1.html

馬演説は、台湾の抗日運動について述べた後、安倍談話に言及し、日本は侵略と植民地支配を誤りと述べたこと、台湾政府は日本が反省しより良い対応をすることを望むと表明しています。安倍政権にも釘を刺したと言える演説ですが、安倍政権の広報誌である産経新聞が上記のように「ご都合主義」「荒っぽい論理」と述べたことを見ると、これが安倍政権の回答なんでしょうね。

*1:http://www.president.gov.tw/Default.aspx?tabid=131&itemid=35534&rmid=514

*2:この部分については、いずれの紙も報じていない。

*3:中共軍の場合、百団大戦直後の日本軍による攻撃でかなり勢力を減退させたため、大規模な攻勢を避け戦力温存する戦略的な必然性があったわけで勢力を回復した1944年後半からは再び活発に攻勢に出るようになっています。これに対して国府軍の戦力温存は戦略的合理性を欠いており、ビルマの戦いや大陸打通作戦での戦力の出し惜しみや惰性的な後退を招いています。当時、中国を支援していたアメリカ軍から見ても、国府軍の戦力温存は異常に見えたらしく、蒋介石国府に対する評価を著しく低下させています。