痴漢事件と解雇の話

少し前の話ですが、この件。
東京メトロ駅員、痴漢で解雇は「無効」 東京地裁判決((千葉雄高)2015年12月25日20時25分)
「判決は「行為の具体的状況から悪質性は比較的低い」と指摘」という点は確かにどうかとは思うんですが、この事件自体がかなり複雑です。

冤罪の可能性

もちろん痴漢行為に対しては確定判決が出ていますので、解雇無効裁判においては法的に冤罪ではありません。ですが、「男性は「痴漢はしておらず、釈放されたい一心で認めてしまった」と主張し」ています。2013年12月の痴漢事件は「略式起訴され、罰金20万円の略式命令を受けて納付」という形で決着しているわけですが、そもそも痴漢事件は否認しても裁判で否認が認められない可能性が高い事件だと言えます。そのため仮に痴漢をしていない場合でも裁判を避ける為に罰金刑を受け入れて社会的な制裁を回避する事例は少なくなく、2013年12月の痴漢事件自体が冤罪であった可能性も否定できません。もし2013年12月の痴漢事件自体が冤罪であった場合、社会的な制裁を回避するために罰金刑を受け入れながら、会社からさらに解雇という制裁を食らったわけですから納得できる話ではないでしょう。
解雇無効裁判の「判決は「痴漢はしたと認められる」と退け」ていますが、仮にも確定判決が出ていて本人も当時は痴漢を認めていたはず*1ですから、地裁としてそれを覆すことは司法組織としてまずありえません。痴漢の事実否定は退けるが、解雇は無効とし「行為の具体的状況から悪質性は比較的低い」と付け加えることで、地裁としてはバランスを取ったつもりなのかな、とも思えます。

冤罪でなかったとして

「出勤のため乗車していた東京メトロ千代田線内で、当時14歳の女性の尻などを服の上から約5分間触った疑い」が事実であるなら、そもそも罰金刑が妥当だとは思いません。もちろん判例などから服の上からの痴漢は迷惑防止条例違反になることが多いのはわかりますが、本来なら強制わいせつや児童虐待として扱うのが妥当だと個人的には思います。
しかし痴漢事件はその性質上、被害事実や加害者の特定が容易ではなく被害者の告発に大きく依存しているという問題があります。その一方で、痴漢自体は深刻な問題として厳然と存在しているわけですから警察や司法は対応を迫られ、結果として生み出したのが、“容疑者の自白に基づく略式起訴での罰金刑、ただし否認するなら事実の如何によらず裁判で社会的信用の失墜のリスクを容疑者に負わせて裁判を避ける”方式ですね。
警察としては罰金刑とは言え痴漢を処罰しているわけですから面子が立つ、被害者としては罰金刑程度であっても加害者を見逃すよりはマシ、事実加害した容疑者にとっては罰金刑を受け入れれば社会的信用を失うことは避けられるのでマシ、無実で逮捕された容疑者にとっても容疑を認めれば罰金刑だけで社会的信用は失わずに済む、こういう構造で安定しているわけです。
これも本来ならば事件直後に残留物や目撃者証言などを集めて丁寧に立証した上で適切な罪に問うべきで、そこから問題があります。

冤罪でなかったとして2・解雇は妥当か

刑事罰を受けた場合、会社からも懲戒を受ける旨の規定は多くの会社であると思います。しかし重い犯罪ならともかく、駐車違反とかなら運転に関わる業種でない限り、会社からも懲戒を受けるようなことはまずないでしょう。
強制わいせつや児童虐待という罪状なら、解雇は妥当だとも思います。しかしながら、この事件について言えば確定刑は罰金という程度の罪状ですから、これが解雇相当かというと疑問があります。判決とは独立して会社が主体的に判断するということもあるでしょうが、それであれば当事者の弁明を聞くべきでしょう。実際、この事件では「同社が社員の痴漢への懲戒処分で、起訴(略式起訴)だけを基準とし、悪質性や処分歴などを考慮しないのは「処分の決め方として不合理にすぎる」」と指摘されています*2
“駅員が電車で痴漢とは何ごとか”と言った指摘も見かけますし、東京メトロ側も「痴漢を防止すべき駅員であり、厳しい処断は当然」と主張しています。まあ、駅員としての職務中ではないとは言え、そういう考え方は理解はできます。略式起訴ではない公判で罪状が確定している場合は厳しい処断もありだと私も思いますが、痴漢事件の略式起訴の場合は慎重な判断が必要だと思います。
そもそも東京メトロは社員に対し、痴漢容疑者を駅事務室に連れて行くことが「現行犯逮捕」になること、連絡先を確認できれば逮捕の必要がないこと*3をちゃんと教育しているんでしょうか。警察が来ていない段階では駅員が主体的に目撃した乗降客がいないか、いる場合は連絡先の確認などをする必要があると思いますが、おそらくはそういったことを避け*4、とりあえず駅事務室に連れて行き警察を呼んで引き渡すというのが基本的な対応となってると思います。だとすれば、会社側は痴漢事件の略式起訴がどういうものか*5は理解しているはずで、それを理解していて本件で「厳しい処断」を行うのは行き過ぎな感じがします。

また「厳しい処断」が妥当だとしても、必ずしも解雇でなければならないわけではないでしょう。懲戒解雇であれば生計の手段を失う上にその後の就職にも影響を与えるわけで、痴漢被害者の心情からすれば“加害者”の人生など崩壊して当然、という思考にもなるでしょうが、その被害者感情は法定刑とのバランスを欠いた私刑を正当化するわけでもありません。東京メトロが本事件に対して会社として何らかの処断をしなければならないとしても、降格や減給、依願退職などの対応がありえたはずです。

事実上の運用を踏まえて考えると

結局のところ、実際に痴漢をしていようがいまいが駅員に現行犯逮捕されれば、ほぼ間違いなく有罪になるのが現状です。どうせ有罪になるのなら否認して公判となって社会的信用すら失うよりはさっさと認めて罰金刑になった方がマシと考えるのが普通でもあります。この駅員の場合、痴漢容疑をかけられたのが職場であるメトロの駅ですから、この駅員自身が痴漢事件の司法運用に詳しくなければ容易に駅事務室に行って現行犯逮捕されたと思われます。おそらくは同僚や上司らも認めて略式起訴にした方がいいと示唆したと思いますが、同時に解雇にはならない、といったことも暗示したと思います。ですが、会社としては社会の目もあり、痴漢を認めた社員に対して厳しい処置を取らざるを得ず解雇となった、しかし駅員としては、それならそもそも痴漢行為など認めなかった、という感じでしょうか。
この駅員が東京メトロ社員でなければ、痴漢で罰金刑を受けても会社に知られることはなかったかもしれません。しかし東京メトロ社員であったことから痴漢で罰金刑を受けたことが当然に会社に知られ解雇につながったわけです。
痴漢で現行犯逮捕された場合は容疑事実の真偽に関わらず罰金刑とされるのが痴漢事件の事実上の運用であることを考慮すると、これが解雇と直結するのはやはり問題であると考えます。
それでも性犯罪は解雇に相当すると主張する場合は、痴漢事件の事実上の運用をも含めて批判する必要があるでしょう。




東京メトロ駅員、痴漢で解雇は「無効」 東京地裁判決

千葉雄高2015年12月25日20時25分
 電車内で痴漢をしたとして略式命令を受けた東京メトロの駅員の男性が、諭旨解雇されたのは不当だと訴えた訴訟で、東京地裁は25日、解雇を無効とする判決を言い渡した。石田明彦裁判官は「解雇は重すぎ、手続きにも問題がある」と述べ、解雇された昨年4月以降、1カ月あたり約36万円の支払いも命じた。
 判決などによると、男性は2013年12月、出勤のため乗車していた東京メトロ千代田線内で、当時14歳の女性の尻などを服の上から約5分間触った疑いで逮捕された。略式起訴され、罰金20万円の略式命令を受けて納付。同社は男性を諭旨解雇とした。
 訴訟で同社は「痴漢を防止すべき駅員であり、厳しい処断は当然」と主張したが、判決は「行為の具体的状況から悪質性は比較的低い」と指摘。同社が社員の痴漢への懲戒処分で、起訴(略式起訴)だけを基準とし、悪質性や処分歴などを考慮しないのは「処分の決め方として不合理にすぎる」とも述べ、解雇は無効と判断した。
 一方、男性は「痴漢はしておらず、釈放されたい一心で認めてしまった」と主張したが、判決は「痴漢はしたと認められる」と退けた。
 東京メトロは「当社の主張が認められず遺憾です」とコメントした。(千葉雄高)

http://www.asahi.com/articles/ASHDT5HPVHDTUTIL041.html

痴漢で解雇「重過ぎ」東京メトロ元社員が勝訴

2015年12月25日 20時38分
 東京メトロで勤務し、痴漢行為を理由に解雇された男性が、解雇の無効を求めた訴訟で、東京地裁は25日、「処分は重過ぎる」として無効と認める判決を言い渡した。
 石田明彦裁判官は、男性の勤務態度に問題がなかったことや、弁明の機会が十分に与えられなかったことを挙げ「懲戒権の乱用に当たる」と指摘した。
 判決によると、男性は2007年4月入社。13年12月、電車内で女性の体を触ったとして逮捕され、罰金刑が確定した。昨年4月、諭旨解雇の懲戒処分となった。
 東京メトロは「主張が認められず遺憾だ。判決内容を精査して対応を検討したい」とコメントした。

http://this.kiji.is/53084338164088836

*1:そうでなければ罰金刑では済まなかったと思われますので

*2:この指摘は、裁判所による指摘としては本来、違和感があります。「悪質性や処分歴などを考慮しない」まま、略式起訴での罰金刑を認めたは裁判所自身ですよね。本来なら裁判所こそが「悪質性や処分歴など」を考慮して判決を出すべきだったと考えます。

*3:http://news.mynavi.jp/c_career/level1/yoko/2012/07/post_1958.html

*4:運行と乗降客の利便を重視すれば経営的に当然ではありますが

*5:要するに人質司法になっていること