「抗日テロ」の用法について

1930年代後半に中国での反体制活動を「抗日テロ」と呼ぶ流れがあったことがはうかがえる。

http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20170927/1506496105

こちらでは別の資料として神戸大学の新聞記事文庫を検索してみました。
「抗日テロ」で検索すると31件ヒットし、同じく1930年代後半に使われていることがわかります。

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 犯罪,刑務所および免囚保護(6-166)
神戸又新日報 1936.3.8 (昭和11)
暗殺団の全滅
魔都上海に巣喰う鮮人四人組
わが領事警察の殊勲
上海七日発電通—当地総領事館警察は五、六両日にわたり共同租界及び支那街において不逞鮮人四名を逮捕したが、右は新公園事件有吉大使暗殺未遂事件の一味の主流で、この結末不逞鮮人の独立運動及びテロリストの陣営は潰滅に瀕するに至った
 逮期された鮮人はモーケツ団員韓道源(三一)金勝思(二二)呉免植(四四)金正根(三五)で何れも暗殺強盗脅迫等の共謀行為遂行のため、最近南京より当地に潜入し害策中のものであった
データ作成:2009.11 神戸大学附属図書館

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(145-018)
満州日日新聞 1936.12.7-1936.12.12 (昭和11)
支那"防共"に覚めず
 満洲事変発生後は従来党部の背後にあって無関係を装っていた国民政府当局も愈々表面に乗出し、盛んに対日抵抗を鼓吹対外的には国際連盟に提訴し、対内的には無抵抗を装いながら党部をして抗日義勇軍を組織せしめて前線に送り或いは東北軍に軍費弾薬を多量に供給極力抵抗を試みたが、国際連盟の利用も抗日義勇軍の活動も効を奏せず、在満民衆は起って満洲国を建設するに及んで国民政府は無準備の抵抗は徒らに失敗を招き自国の滅亡を早めるのみであるとして、一般民衆に対して「長期抵抗」を宣布した
 その後北支停戦協定が締結されるや行政院長汪精衛氏は「一面抵抗一面交渉」の親善とも抵抗ともつかぬ曖昧な政策を掲げ、更に最近には邦交敦睦令を公布し表面的な排日抗日の証跡を消滅する態度を取ったが、依然として国民党の党綱中の「打倒帝国主義」或は「不平等条約廃除」等の共産党からの借物である各種の共産主義政綱はその儘存置するのみならず、第三国際の出張所とも見られる中央党部もその儘存置し、日貨排斥運動の如き表面に現われる運動はこれを避け、共産党直伝のテロ行為によって相手の気勢を削ぐべくCC団、藍衣社等の秘密結社を組織して、天津における白、胡等の親日要人の暗殺、汪精衛氏の狙撃、唐有壬氏射殺は固より成都、漢口、北海、上海各地において邦人殺傷の抗日テロ行為を続け他方昨秋以来北平各大学の学生及び教授は反北支自治を標榜し間断なく抗日運動を継続していること周知の通りである

用語としての「テロ」はソビエト関連で使われているのが多く、ソ連政府による粛清などを「テロ」と呼び、工作活動も対象に含まれるようになり、やがて防共に同調しない中国での抗日事件にまで適用されるようになった、という感じですね。あくまで、新聞上での話しですが。

戦後の国会議事録では1947年には「テロ」の文言が出ており、政府による抑圧・弾圧を「テロ」と呼ぶ事例が見られます。白色テロの意味合いですね。今と同じ意味での「テロ」用法も見られますので、1930年代後半~1940年代後半にかけて複数の含意を持つ「テロ」用法があったように思われます。

辞書的な意味では「政治的目的を達成するために、暗殺・暴行・粛清・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義。」となっています。


ちなみに「クーデター」という用語も1930年代に使われてはいます。武力・軍事力を使った政権掌握に対する用語として確立していたかどうかはよくわかりません。「クーデター」に武力・軍事力を使った政権掌握の意味が持たされていくのは、第二次大戦後の途上国の内戦・紛争などを経てではないのかな、と個人的には思っていますが。

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 政治(44-145)
神戸新聞 1932.5.21 (昭和7)
こんどの事件は一種のクーデター
我々が為さんとした改革だ
小泉三申老の気焔
後継内閣組織の大命が何人に降下するか刻下の複雑な政局に対して二十日午後麻布南部坂の私邸において小泉策太郎氏は左のごとく語った
 昨夜森書記官長に来て貰っていろいろ事情を聞いて見たが森は大雑把な奴で細かいことなどは話さなかったよ、単独内閣とか連立内閣とか政党を基礎としての種々のことが新聞に伝えられているが俺は今回の事件は一種のクーデターでこれによって政党政治は全く打破され、政党政治を潰滅したものとおもう、政治経済また社会の諸般の機構に亘って最近は行詰りの状態で何らかの改革を要することは何人も要望し期待したところで我々は大衆の力でこれが改革をなさんとしていたところだった、それが今回少数の犠牲によって明治維新に次ぐ昭和維新の改革を行ったと見てもいいだろう、そしてこのクーデターによって出来上った潮流が後継内閣を決定するのだ、世間に鈴木とか平沼とか斉藤実とか騒いでいるが最早人の問題でない、どんな者が内閣を組織したところで新たにつくられたロボットにすぎないのだ、政党の連中がこの事態を認識せず政友会では今日大会を開いて総裁をつくったり今さら政党浄化を叫んだりしたのは醜態と思わぬかね、要するにこの新事態を認識し得ないもの等ではこの政局の帰趨が定らず昏冥に陥るのは当然ではないか、しかしこの情勢は軍部が具体的時局収拾案を出さずこれ以上の行動に出でない現状では荒木陸相にしたとろこで昨日と今日とではいうことが違って来るのは当然だと思うね、が西園寺公は度胸ものだからこの混沌たる政情をよく明察して善処するだろう
データ作成:2011.4 神戸大学附属図書館