盧溝橋事件中共陰謀説

1937年7月7日の盧溝橋事件から80年になります。
学術的には既に相手にされていない盧溝橋事件中国共産党陰謀説ですが、未だに極右界隈では人気が衰えてないようです。
中共陰謀説はずっと以前からあり、どれも荒唐無稽なものばかりなんですけどね。
その一つについて、1967年の洞富雄教授による「近代戦史の謎 (1967年)」で批判されています。

(P43-46)
 中国共産党の謀略といえば、七月七日の夜、日中両軍のあいだに忍びこんで発砲した党の張本人である、と自称する王某なる元共産党員の直話というものが、ごく最近、『丸』誌上で紹介された。執筆者は戦犯としてハバロフスクの収容所にいた、元満州国黒竜江省警防課長の斎藤平五郎氏である。氏は昭和三十一年ごろ、収容所内での中国人座談会に出席して、王某の話をきいたと言われる。王は生粋の共産党員で、盧溝橋事件の当時は八路軍特別工作隊上尉連長として種々謀略工作に従事し、その後、異例の抜擢をうけて少将に昇進したが、上司との意見の対立から党規をみだしたという理由で刑をうけ(同僚の嫉視を買い、ついに失脚したとも)、ソ連に送られたという。斎藤氏によれば、彼は盧溝橋事件の謀略について、次のように語ったらしい。

 この時、王連長の任務は、「敵中深く潜入し、日中両軍を挑発して、戦端の口火をきる」ことで、もとより危険ではあったが、また最も栄誉であった。彼はあらかじめ腹心の部下の中から、一騎当千の三十余名を選抜し、全員便衣に変装させて命令を待った。
 おりから七月上旬、盧溝橋附近で日本軍の演習が行われ、あたかもこれに呼応するように、国府軍もまた演習をはじめた。この演習に参加していた国府軍将兵の間には、何事か、異常な殺気がみなぎっていた。事前の煽動工作は、十分に効を奏したのであった。
 七月五日、上司から「この機を逸せず直ちに決行」の命令を受けた王連長は、部下とともに勇躍して実行にうつった。七月七日、日中両軍は盧溝橋附近で、対峙のまま日没にいたるのを見とどけた彼は、暗闇をついて深更までに、両軍の中間深く挺身し、かねて十分に偵察した地点で、隊を二分し、同時に日中両軍に向けて、一斉射撃をあびせかけた。
 このとき、両軍のいずれがあとさきなく、はげしい撃ちあいがはじまり、喚声と銃声は、未明までつづいた。これを見とどけた王連長は、たくみに部下をまとめて、根拠地に引揚げた。
 しかるに翌日になって、現地の日中両軍の間に停戦の気配さえ見えて、予期通りに戦闘は進展しなかった。そこで上司は狼狽し、その翌日、さらに「工作続行」の厳命を下した。
 王連長は日中両軍の情況を十分に偵察し、その夜おそく、直接「日本軍に夜襲」をかけ、その帰途「国府軍に乱射」した結果、ついに両軍の戦闘は本格化して、ようやく所期の目的を達成したのであった。
 この時の彼らの装備は、小銃と、ソ連製自動短銃で、工作中に数名の負傷者を出したのみであった。
(「盧溝橋事件の真相は私が知っている」−『丸』昭和四〇年五月号)

 やや長文を引用したきらいもあるが、これは王少将なるものの「実話」の信憑性を検討するための資にしようとしたからである。斎藤氏の書かれている王少将の実歴が、はたして彼の語ったとおりであるとすれば、これには疑わしいふしがいろいろとある。日本軍の演習に対抗して中国軍もちかくで演習をはじめ、七月七日の夜は、対峙中の日中両軍が、王の挑発によって、はげしい撃ちあいを開始し、それが八日の未明にまでおよんだ、というが、中国軍の演習のことといい、事件発端の戦闘状況といい、これはまったく事実に反する。また王少将は、予期どおりに戦闘が進展しなかったので、事件の拡大を謀って、九日の夜、ふたたび日本軍に夜襲をかけ、さらに国府軍を乱射した結果、ようやく所期の目的を達した、とも語っているが、この方はあるいは若干似かよった事実があったかもしれない。ことの真相はこの後段にあって、前段の話は、王のつくりばなしか、もしくは斎藤氏のききあやまりである、とも考えられなくもないように思われる。中国共産党から刑をうけた党員の将校がシベリアに送られたというのも、不審ではあるが、斎藤氏の記文からは、その辺の事情は皆目不明である。そればかりではない。問題は、王某が盧溝橋事件の当時、第八路軍の上尉であり、その後、少将に昇進したという点である。第八路軍なる名称は、盧溝橋事件勃発によって第二次国共合作が成った結果、従来の共産党軍が南京国民政府軍事委員会の指揮下にはいった際、はじめて与えられたものである。また中国の共産党軍に階級制がしかれていたのは、一九五五年から一九六五年までの短期間で、問題の時期には、上尉とか少将とかいう階級名はまだなかったのである。いずれにしても、王少将なる人物が語ったという盧溝橋事件の「真相」は、どうやら眉つばもののようである。

ちなみに、洞教授は上記引用の後にこう続けています。

(P46)
 盧溝橋事件の火つけ役については、このようにいろいろ考えられるのであるが、じつは最初の発砲そのものには、なんら陰謀性はなかったものかもしれないのである。というのは、日本軍の演習方法からみて、恐怖におちいった中国正規軍の兵士が発砲したであろうという推測の蓋然性が、はなはだ強いからである。

中国軍の隅発的発砲説という現在の通説について、1967年には蓋然性の高い説として既に紹介されています。