教育勅語は政治的には議論が尽くされた上で排除と決まった

今から70年前の1948年、第2回国会衆議院本会議でこういう決議が可決されました。

 教育勅語等排除に関する決議
 民主平和國家として世界史的建設途上にあるわが國の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお國民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であつたがためである。
 思うに、これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八條の本旨に從い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
 右決議する

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/0512/main.html

ちなみに日本国憲法98条とはこういう内容。

第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=321CONSTITUTION&openerCode=1

決議では「これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる」としています。言ってしまえば、教育勅語に道徳の指導原理としての性格を見出そうとすること自体が、基本的人権を損ない、国際協調を乱す原因になると70年前に結論付けられているわけです。

さて今回、安倍政権で文科大臣となった柴山氏がこんなことを言っています。

NHK:関連してなんですけども、教育勅語について、過去の文科大臣は中身は至極まっとうなことが書かれているといった発言をされているわけですけども、大臣も同様のお考えなんでしょうか。

柴山:はい。教育勅語については、それが現代風に解釈をされたり、あるいはアレンジをした形で、今の例えば道徳等に使うことができる分野というのが、私は十分にあるという意味では、普遍性を持っている部分が見て取れるんではないかというふうに思います。

NHK:それはどの辺が十分今も使えるというふうに考えてらっしゃるんでしょうか。

柴山:やはり同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか、そういった基本的な記載内容について、これを現代的にアレンジをして教えていこうということも検討する動きがあるというふうにも聞いておりますけれども、そういったことは検討に値するのかなというふうにも考えております。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181003-00010009-wordleaf-pol&p=4

国権の最高機関たる国会が「明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもと」だと決議しているものに「同胞を大切にする」とか「国際的な協調を重んじる」とか幻視して「検討に値する」とか、まあ、普通に政治家として失格でしょうよ。

「議論すらできないのもおかしい」とかいう擁護論

ていうのもよく見かけますよね。
しかし政治的には70年も前に議論された結果として、教育勅語は政治の場から排除されることに決まったわけですよ。

既に議論の末に決まったことを、さも未決であるかのように何度も何度も蒸し返す、典型的な歴史修正主義の手法ですね。