個人的には全くぎょっとしなかったので気になった件

男たちはなぜ「上から目線の説教癖」を指摘されるとうろたえるのか マンスプレイニングという言葉の持つ力
内容的には面白いと思いましたが、後半の論旨には疑問を感じました。

こういう言葉が男性をぎょっとさせるのは、接頭辞“man-”が「男性の」、もっと言えば「男子文化の」という意味で使われることが、今まで無徴だった男性を有徴にしてしまうからだ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58402

上記の説明は、マンスプレイニングという単語がもたらす影響を英語圏や同様の言語体系を持つ文化圏内限定で話すでの話なら、理解出来ますが、異なる言語の場合は成立しないように思われます。
ところが、北村氏は以下のような説明で、日本語圏でも同様であると判定しています。

けっこうな数の言語では、男性がデフォルト人類だ。英語の“man”は「人間」と「男性」両方を指す。日本語でも、「住民は妻や子を連れ避難した」という時、無意識にこの「住民」がおそらく男性だ、という発想が働いている(「住民は夫や子を連れ避難した」とはあまり言わない)。男性がデフォルト人類で、女性が例外なので、言葉にしるしをつけて示すわけである。私たちが普段使う言葉にすら、女性を例外と見なす性差別が働いている。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58402

ところが「日本語でも、「住民は妻や子を連れ避難した」という時」という事例については、個人的には全く見た記憶が無く事例として不適切ではないかと感じます。「住民は妻や子を連れ避難した」に類似する表現があるのか、少し調べてみましたが、その範囲では「住民」という単語は特に性別を想定した使われ方をされていませんでした。
事例1
事例2
事例3

もし「住民は妻や子を連れ避難した」という表現が使われた事例があるようでしたら、その辺ご教示いただきたいと思います。
「「住民は夫や子を連れ避難した」とはあまり言わない」のは確かでしょうが、「住民は妻や子を連れ避難した」ともあまり言わないように思いますので、これを根拠とした後段の「男性がデフォルト人類で、女性が例外なので、言葉にしるしをつけて示すわけである」とか「私たちが普段使う言葉にすら、女性を例外と見なす性差別が働いている」という説明に同意するのが躊躇われるところです。

また、mansplainingという単語が「男性をぎょっとさせるのは...今まで無徴だった男性を有徴にしてしまうからだ」という説明をそのまま日本に適用するには、マンスプレイニングという単語を聞いて日本人男性が「今まで無徴だった男性を有徴にしてしまう」と感じたという条件が必要です。
しかしながら、マンスプレイニングという単語を聞いて「男性の」「男子文化の」という意味を感じとって「ぎょっと」する日本人男性がそもそもそんなにいるのだろうかというところも疑問です。

そんなわけで「有徴と無徴」という話自体は面白いものの、そして英語圏においてはそういった指摘も当てはまるのかも知れないとも思うものの、そのロジックで日本語圏での男性の受け取り方まで説明しようとしている部分には疑問を覚えました。

「うろたえる」原因は、マンスプレイニングという単語自体ではあるとは言えないのでは?

前半でこのような北村氏の経験が語られています。

しかしながら、私がいつも不思議に思っていることがある。この言葉が話題に出ると、とくに説教好きとは思えない男性まで強く反応するように見えるのだ。普段からそうなら、図星をつかれて…というのもわかる。一方でソルニットも明確に言っているように、全男性が内在的に説教癖を持つわけではない (「説教したがる男たち」、p. 22)。
私が見るところでは、礼儀正しく話の面白い男性も、この言葉が出てくると激しく反論したり、逆に「自分の話は実はマンスプレイニングだったのでは」と突然しなくてもよい反省を始めたりすることがある。いやいやあなたは安心して大丈夫ですよ、と思う。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58402

ここで言われている相手が英語圏の話者かどうか不明なのですが、一応日本語話者とだと仮定しておきます。
その上で、ここで言われている男性の反応ですが、「この言葉が出てくる」からではなく「この言葉」の説明のしかたに原因があるのではないでしょうか。

例えばタイトルの「男たちはなぜ「上から目線の説教癖」を指摘されるとうろたえるのか」という部分。
「全男性が内在的に説教癖を持つわけではない」のに、タイトルでは「男たち」と説教癖の有無に関わりなく男性全体を指していますよね。

内在的に説教癖を持たない男たち(北村氏の言うところの「礼儀正しく話の面白い男性」)は「上から目線の説教癖」を指摘された場合どう対応するのが正解なのでしょうか?
パッと思いつく限りでは、“そんなことはない”と否定するか、“その通りかもしれない”と反省するか、しか対応のしようがないように思います。何故ならば、「「上から目線の説教癖」を指摘される」「男たち」には、男性である自分も当然含まれるとしか解釈できず、その指摘が女性から発せられた会話の場においては、“男であるお前には「上から目線の説教癖」がある”と名指しされたに等しいからで、それに対する反応は否定か肯定かしかありえないからです。そしていずれの場合も「うろたえる」という表現で回収されてしまう可能性が高いでしょう。
とすると、内在的に説教癖があろうが無かろうが「上から目線の説教癖」を指摘されたらうろたえるのは当然に思えてならず、「有徴と無徴」とか「男子文化の」とか関係ないんじゃないですかね。
もしタイトルが、「「「上から目線の説教癖」を持つ男性が多い」というとなぜ説教癖を持たない男性までうろたえるのか」というものでしたら、なるほどどうしてなのだろう?と疑問に思い、その答えを知りたいと思って読み進めることができるのですが。
また、「「上から目線の説教癖」を持つ男性が多い」という第三者に対する指摘とも取れる表現であれば、“自分は違うから関係ない”と思って「うろたえる」ことなく同意する男性もいるでしょう(その自己認識が正しいかどうかに関わり無く)。

「上から目線の説教癖」を持つ男性が多いという指摘ならば同意するのですが

個人的には、以下に定義されるマンスプレイニングという態度が男性に多く見られるものであろうという点については同意できるところです。

男性について使う言葉。(通常は女性に話しかけている時に)必要もないのに、横柄だったり、相手を見下していたりするようなそぶりでものごとを説明すること。とりわけ保護者ぶっていたり、男性優越主義的な態度を示していたりすると思われるような口ぶりの時に使う。(拙訳)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58402

ただ、「必要もないのに、横柄だったり、相手を見下していたりするようなそぶりでものごとを説明する」のは、別に男性に限らないのであってそういう女性もいることも踏まえると、「男性について使う言葉」という風に定義するのはおかしな感じがします。

フェミニズムは長きにわたり、男性のほうが女性自身よりも女性のことをよく知っているので、女性は男性の言うことを聞くべきだ、という考えに抵抗してきた。
こうした考えの背景には、女性は男性より劣っているから、自分自身のことについてきちんと判断ができない、という偏見がある。
これは女性に限らず、アメリカのアフリカ系アメリカ人や先住民とか、宗主国から見た植民地の人とか、ある社会で相対的に弱いほうに置かれた人々に対して、力のある人々が自分たちの支配を正当化するためによく使うレトリックだ。自分たちは判断力のない人々を保護してやっているのだ、というわけだ。
この考え方のせいで、歴史的に女性は教育から閉め出され、財産や参政権や仕事を奪われ、自分の健康や性について知ることもできなかった。フェミニズムは、力を持った男性の保護者ぶった態度と古くから戦ってきた。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58402

こういう歴史的な経緯についても賛同できるのですが、「女性は男性より劣っているから、自分自身のことについてきちんと判断ができない、という偏見」は続く文章で言及してるように性別に限らず、民族などでも見られるものだという点には注意が必要でしょう。
「ある社会で相対的に弱いほうに置かれた人々」が、必ずしもあらゆる場面で「相対的に弱い」わけではないことは、欧米で差別を受けるユダヤ人が中東では加害者でもあることを見ればわかります。

それを踏まえると、次の記述の理解には慎重さが必要であるように思います。

女性は「女医」とか「女流作家」のような自分たちを有徴化する言葉に慣れているのが、おそらく男性は例外化されることに慣れていないのではないかと考えられる。
とくに説教好きとは思えない男性まで「マンスプレイニング」にびっくりしてしまうのは、男子文化の中で大目に見られがちな振る舞いが、実はより広い社会の中で見ると人類のデフォルト礼儀ではない、ということを意外な形で突きつけられてしまうからではないかと思う。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58402

これが北村氏自身の考察であると解する分には問題ないのですが、“男性は男子文化の中で大目に見られてきたので、自分自身のことについてきちんと判断ができない、という偏見”になってしまうとよろしくは無いように思います。

私自身は北村氏の記述について疑問に思うところがありましたので、このように記載しましたが、これに対して「自分自身のことについてきちんと判断ができない、という偏見」が向けられたら嫌だなぁとも思っています。