ある種のマーカー

かなり発狂した側に気を遣った丁寧な言い方です。

反省とこれから

今回のNHK貧困報道“炎上”は、
登場した高校生と番組を制作したNHKが「まとまった進学費用を用意できない程度の低所得、相対的貧困状態にある」ことを提示したのに対して、
受け取る視聴者の側は「1000円のキーボードしか買えないなんて、衣食住にも事欠くような絶対的貧困状態なんだ」と受け止めた。
そのため、後で出てきた彼女の消費行動が、
一方からは「相対的貧困状態でのやりくりの範囲内」だから「問題なし」とされ、
他方からは「衣食住にも事欠くような状態ではない」から「問題あり」とされた。
いずれにも悪意はなく(高校生の容姿を云々するような誹謗中傷は論外)、
行き違いが求めているのは、
衣食住にも事欠くような貧困ではない相対的貧困は、許容されるべき格差なのか、対処されるべき格差なのか、
という点に関する冷静な議論だ。
そしてその議論は、どうすればより多くの子どもたちが夢と希望を持てて、より日本の発展に資する状態に持っていけるか、という観点でなされるのが望ましい。
その際には、高度経済成長を経験した日本の経緯からくる特殊性や、格差に対する個人の感じ方の違いを十分に踏まえた、丁寧な議論が不可欠だ。
私は貧困問題を強調してきたが、その点が十分だったかと言えば、反省がある。
なので、今回の一件に関しては、登場した高校生に対しても、「裏切られた感」を抱いた視聴者にも、申し訳ないと感じる気持ちがある。
その反省を踏まえ、今回の一件を建設的議論に発展させていきたい。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yuasamakoto/20160831-00061633/

私個人は正直言って今の日本社会に、相対的貧困を理解できるだけの理性があるとも、それを救済すべきだという良識があるとも期待していませんので、貧困報道を捏造だと発狂している連中の言説は石の上に落ちた卵が割れるのと同じくらい当然の事象として観測していました。

詐欺や貧困から売春を強いられた戦時性暴力被害者に対して「金目当て」だの「親や業者の責任」だの言い、“鎖ジャラジャラじゃないから奴隷じゃない”とか“金もらってるから奴隷じゃない”とか、どう見ても暴力的な強制の事例であっても“末端だけの問題”と矮小化したり、“証言は信用できない”と否定したり、そんなのは慰安婦問題で散々見せ付けられてきた光景です。
1990年代前半までは、ここまで極端な否定言説を主張したのは極右という限られた政治家・論者で、多くの人たちは腹の中では同調していてもそれを表出させることに躊躇し、あるいは嗜めてきましたが、21世紀になって小泉・安倍(第一次)あたりから極右が圧倒的な勢力を持ち始める右傾化が始まり、以後加速度的に状況が悪化してきました。
今や、かつてはリベラルと目されたであろう人士までが、慰安婦問題が解決しないのは元慰安婦らの日本を許さない“狭小さ”や元慰安婦らを“利用”している支援団体のせいであるとみなし、朝鮮人慰安婦らは日本兵の同志的存在と主張する論者を崇めるありさまです。
貧困問題を虚偽や捏造扱いした言説は、10年前の慰安婦問題に対する極右の言説をなぞっているかのようです。だとすれば「衣食住にも事欠くような貧困ではない相対的貧困は、許容されるべき格差なのか、対処されるべき格差なのか」という問いに対する答えは決まってます。
それは“その程度の貧困”は「許容されるべき格差」に過ぎず、「貧困」と呼ぶべきですらない、という一択です。
それを貧困と訴える者は、「金目当て」だとか「親の責任」だとか侮辱され、支援すべきという声を上げる者は貧困層を“利用”している反日左翼扱いされるだけです。

慰安婦は売春婦であって性奴隷にあらずと否定されたように、相対的貧困は許容されるべき格差であって貧困にあらずと否定されるでしょう。そして同じように否定される社会問題は次々と拡大していくでしょうね。決して建設的議論に発展することなどありません。
まあ、そのような社会を日本人自身が選んだわけですから、自業自得ですけど。