自衛隊を合憲とみなす捻じ曲げ解釈は論外ですが、憲法にせよ法律にせよ、その条文の記載が一般的なイメージどおりの機能を有しているとは限りません。どんなに厳密公正に条文を作ったとしても、想定できなかった事態はありますし、判断の難しい状況も生じえます。そういった個々の事象に対して、行政府の判断や裁判所での判決が積み重ねられていって初めて憲法や法律として有効に機能するわけです。
プライバシーなどの新しい人権や社会権の範囲などは、多くの裁判や行政運営を通して合意が形成されてきています。「公共の福祉」についても、それはどこまで認められるべきなのかを争う裁判が数多く存在し、それら判例が憲法条文の記載では示しきれない詳細な適用範囲を形成しているわけです。判決そのものも時代によって変遷し、基本的人権の範囲も広がってきたわけです。
つまり憲法は一個の条文だけで独立して機能するものではなく、関連する法律・政令・条例・各種判決さらには、末端行政の実務などの積み重ねによってその解釈や範囲が形作られているわけです。
憲法を変えるということはそれらの積み重ねを全てちゃらにすることになります。*1
例えば、自民党案にある「公共の福祉」に代わる「公益及び公の秩序」という文言ですが、「公益及び公の秩序」は個人の権利をどこまで制限できるのか、全くわかりません。「公共の福祉」に関するこれまでの判例の積み重ねが「公益及び公の秩序」にそのまま適用できるかと言えば、答えはNOでしょう。「公益及び公の秩序」とは何なのか、その解釈を一から作っていかなければなりません。
「公益及び公の秩序」を政府・地方自治体の利益とみなして、これまで以上に人権を抑圧しようとする首長が出てくるかもしれません*2。もちろん、ある程度は裁判所が歯止めをかけるでしょうが、それが既存の「公共の福祉」に対して積み重ねられた線を維持できる保証はどこにもありません。
改憲を議論する時は、条文の文言だけを吟味するのではなく、既存の文言の背景にある法令・判例の積み重ねを考慮する必要があるのですが、言葉遊びに終始している意見ばかりが目立っているように感じますね。