90年前からいかほども進化しない排外主義者の心性

慰安婦問題を無かったことに修正した安倍首相ら歴史修正主義者ですが、次の標的を関東大震災時の朝鮮人虐殺に定め、無かったことに修正しようとしているらしいです。
参照:「関東大震災における朝鮮人虐殺――なぜ流言は広まり、虐殺に繋がっていったのか

関東大震災から2ヶ月ちょっと過ぎた1923年11月24日から中外商業新報に連載された記事があります。

新聞記事文庫 災害及び災害予防(5-112)
中外商業新報 1923.11.24-1923.11.28(大正12)

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天殃の余慶 (一〜五)

松緑*1

(五) 流言ひ語の奇効

天災当時、余震よりも猛火よりも一層人心を恐ふせしめたものは、鮮人襲来の流言ひ語であった放火、てき弾、投毒、りゃく奪、殺人などあらゆる戦りつすべき風説がいとも真事しやかに伝えられた。さなきだに神経過びんとなっていた青年輩は、怒気絶頂に達し終に平生の思慮分別を失ってしまった。その結果として無この鮮人の虐殺された例もあり、また鮮人と誤られて殺傷された日本人も少くなかったのである。
この流言ひ語の出処に付ては素より確証がなかったが、人心恟々たる非常の場合とて、一犬虚にほえて万犬実を伝うるの例で、警官、憲兵中にさえ真面目に警戒を促した者があった。一般市民がそれを信ずるようになったのも無理がない。
それに一部の不逞鮮人がシャンハイに本部を設けて常に独立運動を鼓吹しつつある事実や、爆弾を貯蔵した怪き鮮人の逮捕された事実や、一部の社会主義者が鮮人を扇動して何事か目論見つつあるという事実などが、遠い以前から内地人の神経を絶えず刺戟していた。
鶴見附近の工事に雇われていた三十人ばかりの朝鮮人が、震災後請負人に離れ途方にくれた余りその中の二三人が食料を強奪したので、多数内地人の襲来に遇い、ここに両者の間に血を流すほどの闘争を生じた事実があった。それが間もなく東京に伝わると、忽ちにして三百の鮮人各兇器を手にして横浜方面より東京に襲い来らんとして、端もなくも六郷川において警官の一隊と衝突し激戦中なりとの風説に転化して了った。これなどは、流言ひ語の由来を語る一例である。天柱おれ地緯さくかとばかり怪まるる大変に際して、疑心暗鬼を生ずるのは、決して不思議な事ではない。

先のシノドス記事でも指摘されていますが、この時点で既に震災の混乱の中で朝鮮人が暴動を起こしたなどというのがデマであると認識されていること、「無この鮮人の虐殺された例もあり、また鮮人と誤られて殺傷された日本人も少くなかった」ことがわかります。無辜の朝鮮人や間違えられた日本人などに対する虐殺は否定することなど考えられないくらい明らかな事実だったわけです。
上記で引用した小松記事を読むと、外交官である小松氏がことさら朝鮮人に同情的であるわけでも反差別の立場であるわけでもないことがわかります。そういう人物にしても虐殺の事実は認めざるを得なかったわけです。

それはさておき、サブタイトルの「流言ひ語の奇効」の所以を読み解くと、これはこれでひどい差別根性丸出しの当時の日本人像が浮かび上がるわけですが。

*1:明治大正期の外交官。

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