冀東暴動

以前、通州事件(1937年7月)と冀東暴動(1938年7月)が混同されやすいことを書きました。通州事件に関してはここで詳細に書いていますので、ここでは冀東暴動に関する記述を紹介します。

もうひとつの三光作戦
(P95-96)

冀東大暴動

(略)
 冀東地区はその特殊性と重要性とから、満州事変以来、日本によって冀東防共自治政府の設立などの特殊化が推し進められていた。そのためこの地では、天津や唐山を中心に早くから非合法の反日・抗日運動が展開されていたが、その延長線上で1938年7月、盧溝橋事変の一周年を期して、抗日暴動が準備されつつあった。そしてそれは延安の八路軍総部の命令にもとづいて、この方面に進出をはかろうとしていた第四縦隊(いわゆる勝g宋縦隊)に呼応して発動されるはずであった。抗日戦争の開始以来、中国共産党はこの地域の重要性に目をつけていたわけである。
 刻々と近づきつつある八路軍と合流すれば、この地域の抗日勢力はいっきに勢いづくはずであった。そのため地元では、李運昌らのちに日本軍に目の敵にされる著名な指導者たちが、国民党系の抗日分子をもふくめて秘密裡に会合を開き、冀東抗日聯軍を組織すること、および暴動の決起の日を7月16日とすることなどを決めた。しかしこの二つの情報は日本軍の探知するところとなり、地元の指導者たちの逮捕と武器の没収がおこなわれそうになったため、準備不十分のまま、計画日を早めて武装蜂起せざるをえなくなった。
 抗日暴動は7月6、7日ころから、日本にとってきわめて重要な戦略拠点であった開灤炭鉱をふくめた数か所で開始された。一部の日本軍に協力してきた漢奸部隊(当時は保安隊と呼ばれていた)や匪賊のなかにもこれに合流するものがあった。この暴動の指導者だった李運昌によれば、暴動は10月まで続き「中国共産党が初めて敵の後方に組織し20万の労農大衆が参加した」ほどの大規模なものだったとされている(この20万という数は一般大衆をふくむもので、放棄した武装力は他の文献によれば10万である。その内訳は、抗日聯軍系が約7万、国民党系とその他の軍が約3万だったといわれる)。
 河北を「特殊化」し、この地域を満州と大陸本土とを結びつける重要な戦略基地と位置づけていた日本軍は、突然沸き起こったこの武装蜂起に驚愕し、第110師団を派遣してこれの鎮圧にあたらせた。
 この暴動にたいして中国共産党中央委員会は9月1日、祝電を送りその成功を高く評価したが、しかし実際には冀東の部隊と八路軍とが合流するのには成功したものの、日本軍の討伐に対抗できずに、主力部隊は10月上旬には西方へと撤退している。そしてこのとき、500人ほどいたといわれる党の基層組織も解体状態となり、活動は停止してしまった。1943年3月の劉少奇(当時の中共中央北方分局書記)の報告のなかにも「しかしながらこのたびの武装蜂起は、間もなく敵の厳しい攻撃を受け、重大な挫折にみまわれた」と述べており、また同じころ出された中共中央北方分局の冀東への指示にも「1938年の大暴動の敗北」といい、さらに冀東の地方党委員会は「上級の方針と政策を実行するうえで、依然として若干の欠点と誤りがある」というかたちで、38年当時の敗北の一つの原因の所在を暗示している。共産党自体が敗北を認めていたわけである。